下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ドロシー・L・セイヤーズ「雲なす証言」(創元推理文庫)

ドロシー・L・セイヤーズ「雲なす証言」創元推理文庫)を読了。

雲なす証言 (創元推理文庫)

雲なす証言 (創元推理文庫)

 セイヤーズを読み直そう第2弾。今度は処女作の「誰の死体?」に引き続き2作目となる「雲なす証言」(1926年)である。「誰の死体?」の感想でセイヤーズは「ファルス(笑劇)じゃないか」とあたかも発見のように書いたのが恥ずかしい。言い訳だが私はこの作品を読み終わった後初めて読んだのだけれど、この「雲なす証言」の解説で宮脇孝雄氏がすでにちゃんと書いていたではないか。それにしても、私がセイヤーズのことを重厚な文学的作風だと勘違いしたのはルース・レンデルやP・D・ジェイムズのせいもあったのだけれど、宮脇氏の解説にもあるように江戸川乱歩の紹介のせいがあるかもしれない。乱歩自身の英語読解力や当時の翻訳の限界もあるのかもしれないが、乱歩の場合、やはり根が真面目すぎるせいか、英国の「笑い」の系列の作品に対して、根本的な誤解があるような気がする。一例を挙げれば乱歩が倒叙推理小説の一例として挙げているリチャード・ハルの「叔母殺人事件」。確かあれを乱歩はユーモア風味のあるなどと書いていたと記憶しているが、以前読み直してみたところでは、あれはどう考えても典型的なファルス(笑劇)ないし、スラップスティックスでしょう(笑い)。それも含めて乱歩の功罪における功の部分は大いに認めるけれど、正直言って罪の部分もある*1と思う。
 さて、「雲なす証言」に話を戻そう。ピーター・ウィムジイ卿の実の兄が殺人事件の容疑者となり、ほかの関係者も身内ばかりのせいか、宮脇氏の解説にとっては残念至極なのことだが、ファルスとしての純度、笑いの部分では前作「誰の死体?」と比べるとずいぶん落ちる。もちろん、ウィムジイ卿は性格ゆえに会話のはしばしで軽口は叩くのだが、相容れないところがあるとはいえ、実の兄にかかった冤罪をはらすためにけっこう真摯に事件の真相解明に奔走するのだ*2
 一方でミステリ書きとしてのセイヤーズの手腕には前作と比べると格段の進歩の跡が見える。「雲なす証言」の表題通り、単純な事件が登場人物のうち何人かがそれぞれの事情で嘘の証言をしたり、事実関係の隠蔽をはかるために事件の様相が複雑なものに見えてくるというパターンで、こういう仕掛けはクリスティーがもっとも得意としたところだが、セイヤーズもここではその手管を存分に使ってみせてくれる。
 ただ、こういうことを書くとまた「こいつはクリスティー派だから」とか言われそうだが、こういうプロットの謎解きへの興味ともからめての生かし方ということからいうとやはりクリスティーに一日の長があるといわざるをえない。というか、もう少し正確な言い方をするならばこの2人はまったくタイプの違うミステリ作家だということがこの作品からははっきりと分かる。それは探偵としてのピーター・ウィムジイ卿*3にもあるが、捜査の方法などを見る限りでは奇矯な発言や衒学趣味から、そして貴族の素人探偵ということから、天才型の探偵と思われがちな、ピーター・ウィムジイ卿だが、セイヤーズのプロットそのものは友人の警部パーカーの助けも借りながらの堅実な調査に基づくもので、少なくともこの物語でのウィムジイ卿の捜査法はポワロよりも、フレンチ警部に似ている。そして、ここでも誤解を恐れずに言えば、セイヤーズの探偵小説としてのプロットはこの「雲なす証言」に関していえばクリスティーよりはF・W・クロフツに似ているといえる。
 それゆえ、本格ミステリに求められる発想の妙のようなものはあまりなく、ミステリ小説として考えるとこの結末かよと、もの足りなくもある。だが、この小説の場合、どう考えてもここにしか着地できなかったろうなというのは分からないでもない。クリスティーだったら、最後にひっくり返して実は××が犯人なんてのもやるかもしれないが、今後レギュラー登場人物になってきそうな人物のうちひとりをそれに使えば、まだ2作目だし、いくらなんでも後が続かないだろう(笑い)。ただ、ネタばれになるので書きにくいが、この小説のミステリとしての結末の部分にはある意味セイヤーズらしさがあるし、特にこの物語の最後で重要な役割を果たすことになる複数の女性たちの描き方にはこの後でセイヤーズならではのヒロインであるハリエット・ヴェインが登場してくることへの前哨戦の雰囲気が感じられたりもした。 
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*1:倒叙推理小説(乱歩の用語でいえば倒叙探偵小説か)でいえば倒叙という新しい概念を出してきたのは功績だと思うが、アイルズの「殺意」を倒叙としたのは明らかに間違いだろう。あれは普通に犯罪小説でいいだろう。「トライアン・アンド・エラー」はどうかというと……あれも倒叙とは言いがたい。こちらは倒叙の形式を知ったうえで利用したとは思うが。確かに時代の制約があり乱歩を責めるのは酷で、責めはむしろいまだにそれをそのまま鵜呑みにしていたりする一部の評者にあるとは思うのだが

*2:そのために狙撃されたり、沼に落ちて死に掛けたり、ここだけ見るとまるでシカゴの女探偵みたいだ(苦笑)

*3:人物造形ということじゃなくて、あくまで探偵のタイプとしてである