「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(5)
後期作品の先駆 「五匹の子豚」
この論考の前半部で取り上げたホワットダニット的な特徴を持つ後期作品への先駆的な作品には「五匹の子豚」(1943)がある。これは実はテーマ、構成ともに「象は忘れない」と瓜二つの話であって、ほとんど完成された「過去」タイプの作品なのだ。
現在はカーラ・ルマルションという名前だが、実はカロライン・クレイルの娘である若い女性がポワロの元を訪れるところから物語は始まる。父である画家アミアス・クレイルが殺された殺人事件を再調査してほしいというのだ。彼女がまだ5歳だった16年前の事件で、母親カロラインは夫殺しの罪で有罪となり、情状酌量で死罪は免れたがしばらくして獄中で亡くなった。娘が事件の再調査を望むに至ったのは21歳の誕生日に渡された自分の無実を断言した母親の手紙がきっかけだった。この問題がはっきりしないとこれから始めようという結婚生活が台無しになるかもとの心配もあった。
この作品を他の作品よりも優れたものとしている要因にはその叙述の形式がある。我々読者はこの事件の弁護をした人々から、事件の中心となる三角関係について様々な意見を聞かされることになる。次にポワロは、事件当時この事件に直接かかわりを持っていた5人の人物(ポワロはこの人たちを「五匹の子豚」と名付けている)から、それぞれの立場からの個人的な解釈を聞かされることになる。ここ(第2部)ではこの5人のそれぞれの一人称描写で事件が提示され、多面的な光が当てられる。そして、最後(第3部)にいたってポワロが初めてその背後にある真相を明かすことになるのだ。
この多角的な視点によって描かれるカロライン・クレイルはその視点ごとの偏差によって様々な性格付けが複合化された人物として現れ、ある意味それまでクリスティーが描き出してきた扁平人物の域を脱しているともいえそうなのだが、そういう意味ではこの作品はクリスティーの叙述についての技巧のひとつの頂点ともいえるのではないかと思う。
それはこの作品序章でのトリーブズ弁護士の次のような言葉によって示される。
「私はね、よくできている探偵小説がすきなのだ。だがね、どれも出だしがいけない。みんな殺人ではじまっておるのだ。しかし、殺人というものは終局なのだよ。物語はずっと前からはじまっておるのだ。ときによっては何年も前からね。ある人々をある日、ある時、ある場所にみちびいてくる。その要因と出来事とで物語は始まっているのだ。(中略)あらゆるものが、ある一点に向かって集中しているのだ。……そして、その<時>がやってくるとーー爆発するのだ!そうだ、ありとあらゆるものが、このゼロ時間の一点に集中されている……」
この作品では、犯人が序章で登場し、自らその殺人計画書に9月某日の日付を書き入れる。そして、カットバックにより描写は関係者皆が集まるソルトクリークのトレシアン夫人宅に戻される。
その後、物語はネヴィル・ストレンジとその妻ケイ、そしてネヴィルの前妻のオードリイの三角関係を中心に進んでいき、殺人は物語の終わり近くまで起こらない。
ディクスン・カーのフェル博士による「密室講義」ほど注目されることはないが、前述のトリーブズ博士のセリフは彼の言葉をかりたクリスティー自身のミステリ論ということさえできるのではないか。
クリスティーが捜査、尋問、解決という決まりきった手順を踏まざる得ない従来の推理小説への不満を露吐したものと考えられ、それが次第に人間関係や殺人が起こるまでの状況への興味を中心主題とした彼女の晩年の作品群(つまり、ありていに言えばホワットダニットということだ)への移り変わりを予感させるものとなっているのだ。
ここでは詳しい分析をすることはできないが中期の他の注目作品としては「無実はさいなむ」(1955)、「マギンティ夫人は死んだ」(1952)、「鏡は横にひび割れて」(1962)がある。