後期クイーン論に向けた序章として(2) エラリイ・クイーン「フォックス家の殺人」(ハヤカワ・ミステリ文庫)
今でこそ演劇やダンスの批評を中心的なフィールドとしているが、実は大学時代に京大ミステリ研に所属していたこともあり、当初批評的な分析の主たる対象となっていたのはミステリ小説についての考察であった。アガサ・クリスティーについてはすでに大学在学中に論考を機関誌「蒼鴉城」に書き、昨年の非常事態宣言のころにこのブログにも論考*1を再録。さらにクリスティーに続く英国ミステリの潮流としてルース・レンデルやコリン・デクスターの作品分析をホワットダニットという切り口*2、*3、*4から試みてみた。
その試みはそれなりに興味深いことだったが、実は大学を卒業後、演劇やダンスなど次の批評対象に出会うまでに批評的思考の対象としてきたのはエラリイ・クイーンの作品群であった。しかも、当時考察の中心としていたのは国名シリーズやレーン4部作など当時クイーンの代表的作品と考えられていた初期の傑作群ではなく、ライツヴィルものなどとして知られた中期以降の作品なのであった。クイーンについては大学の後輩でミステリ作家である法月綸太郎が「初期クイーン論」で論じており「ゲーデル問題」などの問題群が現在ではクイーンを論じる場合の基本となっているようだ。法月はおそらく、その後当然のように後期クイーンについても論じているはずだが、当時私の考えていたことのあらましは以前このブログ*5、*6にも書いた。このことの続きはどこかで考える必要があるだろうと考えてはいたのだが、このほどいくつかのクイーン作品が新訳で再び文庫化されるということになったこともあり、この機会にクイーンの作品について再び考えてみることにした。
最初に読んでみたのは「フォックス家の殺人」である。実はこの作品については初読時の印象が非常に薄くて「災厄の町」「十日間の不思議」などと比べるともの足りない印象が強い。ただ、現時点で再読してみるとこれはクリスティー後期作品によく見られる過去にあった事件の真相が現在まで尾を引いてそれが現在進行形の出来事に影を落とすという「過去型」のホワットダニットと非常に似たプロットを持つ作品であるということに改めて気が付いた。というか、クリスティーがこの種のプロットを多用したのは1960年代以降であるため、ほぼ同時期に「五匹の子豚」(1943年)そして当時は未発表だが「スリーピング・マーダー」はあるけれども「フォックス家の殺人」(1945年)はこうしたプロットのかなり初期の先例だったということができるだろう。
実はここまで書いてきて気が付いたのだが、「五匹の子豚」について書いたクリスティー論の当該部分*7を参照してみてほしい。エラリイ・クイーンが2年ほど先んじて発表された「五匹の子豚」を意識してこの「フォックス家の殺人」を書いたことはほぼ確実ではないかと思う。過去に起きた殺人事件によりその子孫の男女が危機に陥るという筋立てが同じというだけでなく、表題が「五匹の子豚」「フォックス家の殺人」とそれぞれ豚とキツネとを動物をメタファーとしていること、本文の章立てがそれぞれ豚(子豚)とキツネにちなんだものとして構成されている*8などとかなり明確な一致点があるからだ。実はクイーンとクリスティーは過去にいくつかのアイデアが一致してしまい、先に書かれたことでそのアイデアを断念せざるを得なかったということも明らかにされているが、この両作品について誰か批評家が何らかの指摘を誰かがしたという事例はいままで聞いたことがない*9のだが、これは偶然ではなく、クリスティーのアイデアに後から作品を書いたクイーンが意図的に挑戦したのではないかと思う。
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かつて「悪の起源」について分析した論考*10でクイーン作品の特徴についてこんな風に書いたことがある。
初期の国名シリーズなどでは「読者への挑戦状」などでフェアプレーなどを重視する純粋論理的な推理小説を標榜していたかに見えるクイーンが実は本来三段論法のような論理的な整合性(犯人当て小説には重要)ではなくて、そうではないレトリックに対する強い嗜好性をもっていて、むしろミステリ作家としてのクイーンの本領はそちらにあるのだということが、初期には隠蔽されていたのが次第に露わになってくる。その代表的な作品のひとつが「悪の起源」だということが今これを読み直してみるとよく分かるからだ
似たようなことは法月綸太郎の評論集についての文章でこのようにも記した。
クイーンといえば普通はレーン4部作や国名シリーズなど初期の作品群が代表作とされ、挑戦状をつけたりしてフェアプレーを重視した純粋パズラーの作家と見なされているのだけれど、私はこの人のミステリ作家としての本領は「盤面の敵」「十日間の不思議」「第八の日」「悪の起源」といった中期以降の作品群にあると考えている。それはこうした作品群においてまだ前期の作品においては露わな形では出てこなかったこの人の論理の特異性が極限的な形で露呈してくるからである。
「フォックス家の殺人」はクイーンの作品の中では国名シリーズのような遊戯性よりは社会的な問題への気配りなどリアリティーを重視したとされているライツヴィルシリーズの第2作でもあり、そうした後期作品とは一線を画すものと思われてきたのかもしれない。確かにこの作品においての中心人物のデイヴィー・フォックスが太平洋戦争で戦功を挙げた帰還兵でありながら、クイーンの当時はまだ言葉自体がなかったかもしれないが、現代でいえばPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)に当たるような心的障害を患った人物であり、そのことが物語の根幹とかかわってくることにはそれが当時の米国で大きな社会問題となっていたこととおそらく深い関係があるのだと思う。
とはいえ、物語全体の仕立てはいかにもクイーンらしいものだ。まず、注目していきたいのは「フォックス家の殺人」という表題である。和訳ではそこまでは感じ散れないが英語の原題は「The Murderer Is a Fox」であり、直訳すれば「殺人者はキツネ」だということになる。キツネには動物のキツネ、そしてフォックス家の人間というだけでなく「狡猾な人」という意味もあると文庫解説で飯城勇三氏が指摘しているが、それこそこの作品には全編にFOX(キツネ)のイメージが隠喩として散りばめられ、この世界を覆いつくしている。
といえどもその解決にも類似点がかなりあると個人的には思うのだが、解決にいたるそれぞれの探偵の推理はかなり趣きが異なる。「フォックス家の殺人」はワイングラスに入れられたジギタリスによる毒殺事件を題材として扱っており、クイーンは誰がそこに毒を混入するチャンスがあったのかを巡る推理を通じて、可能性の消去により、犯行の可能性を絞り込んでいく。その意味では作品中にメタファーを散りばめていると指摘したが、ミステリ小説としてのプロット自体はその複雑さにおいて若干の違いはあるのの国名シリーズなどにおける論理を踏襲しているともいえるかもしれない。
これは構図の地と図を逆転させるような幕切れに賭けた感があるクリスティーの仕掛けとは異なるものでオーソドックスな作風とはいえなくもないが、探偵クイーンの手品のようにそれまで想定もしていなかった人物が突如姿を現すくだりなどはいかにもクイーンらしい鮮やかさである。
とはいえ、最終的なこの作品の結末に賛同できるのかどうかは賛否両論が分かれるところだろう。それでも表題と結末が見事に呼応していくことに気が付いた時、衝撃を感じたのも事実だ。
私がどちらかというとクリスティーの作風により共感を抱いているせいもあって、ともすればクリスティーの「五匹の子豚」の方に軍配を挙げたくなるところはあるが、「フォックス家の殺人」にも大きな魅力があり、本格ミステリファンは両書を比較して読み比べてみることもお勧めしたい。
*1:simokitazawa.hatenablog.com
*2:simokitazawa.hatenablog.com
*3:simokitazawa.hatenablog.com
*4:simokitazawa.hatenablog.com
*5:simokitazawa.hatenablog.com
*6:simokitazawa.hatenablog.com
*7:simokitazawa.hatenablog.com
*8:各チャプターの表題が「キツネの愛」「キツネの手袋」「きつねとぶどう」「きつねの痕跡」などすべてキツネがらみのものになっている。
*9:ネット検索をしてみると複数の読者が両書の類似については気が付き、指摘しているようだ。