下北沢通信

中西理の下北沢通信

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エラリイ・クイーン「悪の起源」

 エラリイ・クイーン「悪の起源」(ハヤカワ文庫)を読了。

悪の起源 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-9)

悪の起源 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-9)

 法月綸太郎のミステリ評論集を読んでひさびさにクイーンを読み直してみたくなって、まず読んだのがこの「悪の起源」。クイーンのハリウッドものと呼ばれるものの一冊ではあり、そういう意味ではタッチとしてはライツヴェルものに比べると軽いところがあるが、テイストは典型的な「後期クイーン」といっていいだろう。
 ここで「後期クイーン」と書いたのはどうやら最近のミステリ評論の世界では「後期クイーン問題」なるものが問題となってきているようなのだが、ここでの関心はそういうことではなくて、初期の国名シリーズなどでは「読者への挑戦状」などでフェアプレーなどを重視する純粋論理的な推理小説を標榜していたかに見えるクイーンが実は本来三段論法のような論理的な整合性(犯人当て小説には重要)ではなくて、そうではないレトリックに対する強い嗜好性をもっていて、むしろミステリ作家としてのクイーンの本領はそちらにあるのだということが、初期には隠蔽されていたのが次第に露わになってくる。その代表的な作品のひとつが「悪の起源」だということが今これを読み直してみるとよく分かるからだ。
ここからネタバレあり







 「十日間の不思議」「九尾の猫」でアメリカの小説として新旧聖書などの神話的なモチーフを作品のなかに持ち込んだクイーンがこの作品ではなんとそれとはまったく対極的なダーウィンの進化論を作品のモチーフに取り込んでみせている。ここがまず面白い。
 その持ち込み方がシリアスにというよりはむしろ遊戯性を強く感じさせるものであり、それゆえに大昔にこれを最初に読んだときには「なんじゃこりゃ」というのが読後の印象で、そこがハリウッドものとライツヴィルものとのタッチの違いともあいまって、なんとなく軽薄な匂いも感じて釈然としないところがあったのだが、この作品などを読んでみるとクイーンにとって重要なのは宗教的なモチーフそのものではなくて、そういうモチーフを作品のなかに封じ込めることで立ち現れるメタファー的なコノテーション(意味性)が作品に付加するイメージの連鎖の方が重要だったのではないかと思われてくる*1
 この作品が典型的なクイーンと書いたのは「見立て」「あやつり」という最初期の作品である「Yの悲劇」以来、クイーンが生涯こだわりつづけた趣向がきわめて露わな形で主題化されているからだが、一言で「見立て」といってもこれは相当に変なものだといわざるをえない。通常ミステリ小説における「見立て」モチーフなるものは例えばヴァン・ダインの「僧正殺人事件」のように犯人の論理の狂気性を示すものか、「ABC殺人事件」のように犯人の狂気性を暗示するように見せかけて、その背後に犯人の行為の論理的合理性を示すものか、どちらかに分類されることがほとんどなのだが、クイーンの場合はどちらともいいかねる。
 この場合は「見立て」といっても「見立て殺人」ではなくて、被害者にだけ分かる暗号のようなものとして、連続した脅迫としてこれが行われるわけだが、これが「ダーウィンの進化論」による見立てだということが分かった後、そのことをよく考えてみるとこの「見立て」の目的なるものを探偵クイーンにそれを見せるためということになってきてしまい、その意味では単なる狂気の兆候ではなくて合理的目的性を持ったものだということになるのだけれど、だけどなぜそんなことをするのかということをもう少し突き詰めて考えた場合にそれは探偵クイーンがそういう推理を好むから、あるいは犯人と探偵との共同作業による論理構築ということにもなるわけだけれど、これがもう一段上がって作者クイーンの動機を考えた場合には作者がそういう構築を好むからということしかなくなる。
 つまり、それは一見論理のように見えて論理を超えたところにあるので、作中探偵であるクイーンの論理はそれを後追いするものとしかなりえない。それゆえ、探偵クイーンの推理のうちタイプライターにまつわる部分の論理はかなり巧妙で「犯人当て」的な推理としても成り立つものであるのだけれど、その後の「ダーウィンの進化論」の見立てについての部分は論理というよりは一種の構図のようなものであって、論理ではなく解釈によって探偵クイーンは真相を指し示すが、そこで駆使されるのは「草の三段論法」いわばアブダクションとしてグレゴリー・ベイトソンが提示したような類のものであって、法月綸太郎が「初期クイーン論」で論理の形式化として名指したような論理とは違うものだと思われるからだ。
 実はここにクイーンが神話的なモチーフを作品のなかで多用する隠された理由がある。というのは神話というのは通常の三段論法であるバルバラの三段論法による思考の果実である科学ないし哲学の思考に対し、このアブダクションの論理が駆使される典型的な場であるからで、その意味で神話的な思考とクイーンの論理は親和性が高いと思われるからだ。そして、ダーウィンの進化論が純然たる意味での科学的思考であるのかどうかは現在でも若干の異論も出てくるところであろうが、少なくともこの「悪の起源」におけるそれは科学というよりも一種の神話的な思考のようなものとして捉えられている。
 というのはここで提示されるのは「進化論」そのものというわけではなくて、進化を図解した一種のタブローであり、ダーウィンの進化論の自然淘汰、適者生存といった論理の部分はオミットされているわけで、その意味では進化論というよりはこの「見立て」自体はその前段階あるいはダーウィンの影響下の元で宗教界の方から出てきた「神への階梯」のようなものへのイメージに近いともいえそうだからだ。
 もちろん、現在でさえ、ファンダメンタリスト的なキリスト教の教義とダーウィンの進化論との齟齬は政治問題として繰り返し俎上に上がるように宗教と進化論の問題はアメリカにおいては歴史的にも重要な問題であり続けた。
そして、そうした状況とクイーンが娯楽作品であるミステリ小説とはいえ、進化論をモチーフとしてこの時期に取り上げたということは当時のこの問題をめぐる社会状況とまったく無縁というわけにはいかないだろうとも思う。それゆえ、この問題については単に論理形式の問題というだけにはとどまらず当時の状況を踏まえての考察が必要だとは思われるが、今この論考でそれを正面から論じるには準備不足であることはいなめない。このあたりは宗教モチーフを扱ったクイーンの別の作品の考察も含めて論を改めて考える必要があるだろう。
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*1:このことについては「十日間の不思議」「九尾の猫」を読み直してからもう一度考えてみたい