下北沢通信

中西理の下北沢通信

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後期クイーン論に向けた序章として(3)  エラリイ・クイーン「十日間の不思議」(ハヤカワ・ミステリ文庫)

後期クイーン論に向けた序章として(3)  エラリイ・クイーン「十日間の不思議」(ハヤカワ・ミステリ文庫)

私が個人的に後期クイーンを代表する作品だと考えているのが、「十日間の不思議」である。ライツヴィルものの第3作だが、この作品において後期クイーンの最大の特徴と私が考えている「神話的モチーフ」がはっきりと姿を現す。「災厄の町」「フォックス家の殺人」を論じた際にクイーンがライツヴィルものと言われる連作に王家の悲劇というギリシア悲劇を思わせるような筋立てを与えたとしたが、同様なことは「十日間の不思議」にも当てはまる。ただ、この作品がそれだけですまないのは筋立てだけではなく「十日間の不思議」という表題からも分かるようにこの作品は旧約聖書の様々なモチーフをなぞって作られている。
実はこの作品のおける旧約聖書のようにクイーンが好む作品を覆いつくすような神話的なモチーフに対する親和性というのが私が「後期クイーン論」で提起したい問題である。後期クイーン的問題*1といえばミステリ批評の世界では法月綸太郎が提唱した2つの問題、第1に「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」、第2に「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」が問題とされることが多い。すなわち、ここではより端的に言えば「創作における名探偵の不可能性」が問題とされることが多いと思われるが、私の考える後期クイーンについての問題は少し異なる。
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ぼくを見張ってほしい――たびたび記憶喪失に襲われ、その間自分が何をしているのか怯えるハワード。 探偵エラリイは旧友の懇願を聞き入れて、ハワードの故郷であるライツヴィルに三たび赴くが、そこである秘密を打ち明けられ、異常な脅迫事件の渦中へと足を踏み入れることになる。連続する奇怪な出来事と論理の迷宮の果てに、恐るべき真実へと至った名探偵は……
 文庫本の解説でこの作品はこのように解説されているが、この作品も「災厄の町」「フォックス家の殺人」同様に“ライツヴィルの王家''における悲劇の物語として語られる。それゆえ、全体としてリアルな筆致の小説というよりは神話的あるいは寓話的な虚構の色合いが強い。そうした中で作品そのものが宗教(特にキリスト教)に基づく、イメージの羅列で彩られていることに気が付くが、そのことは最後に起こる決定的な事件(殺人)に至って、そのすべてを「見立て」的な構図と解釈した探偵クイーンの推理で完結したかのように感じられる*2。ところがこの推理は誤っていて、事件が一段落した後でクイーンは別の真相を導き出すのだが、私がこの作品について感じたこの作品への「モーゼの十戒」導入への疑問はそれがなぜ「モーゼの十戒」なのかということが作品の内部の論理だけでは論証しきれないことにあるのだ。実はライツヴィルものではないがやはり後期クイーンの作品である「悪の起源」についての論考で以前こんな風に分析したことがある。

この作品が典型的なクイーンと書いたのは「見立て」「あやつり」という最初期の作品である「Yの悲劇」以来、クイーンが生涯こだわりつづけた趣向がきわめて露わな形で主題化されているからだが、一言で「見立て」といってもこれは相当に変なものだといわざるをえない。通常ミステリ小説における「見立て」モチーフなるものは例えばヴァン・ダインの「僧正殺人事件」のように犯人の論理の狂気性を示すものか、「ABC殺人事件」のように犯人の狂気性を暗示するように見せかけて、その背後に犯人の行為の論理的合理性を示すものか、どちらかに分類されることがほとんどなのだが、クイーンの場合はどちらともいいかねる。
 この場合は「見立て」といっても「見立て殺人」ではなくて、被害者にだけ分かる暗号のようなものとして、連続した脅迫としてこれが行われるわけだが、これが「ダーウィンの進化論」による見立てだということが分かった後、そのことをよく考えてみるとこの「見立て」の目的なるものを探偵クイーンにそれを見せるためということになってきてしまい、その意味では単なる狂気の兆候ではなくて合理的目的性を持ったものだということになるのだけれど、だけどなぜそんなことをするのかということをもう少し突き詰めて考えた場合にそれは探偵クイーンがそういう推理を好むから、あるいは犯人と探偵との共同作業による論理構築ということにもなるわけだけれど、これがもう一段上がって作者クイーンの動機を考えた場合には作者がそういう構築を好むからということしかなくなる。

 ここに書いたように「十日間の不思議」が文字通り不思議なのは犯人がこのような行為をする理由が狂気でも論理的合目的性でもなく、それゆえ作家クイーンがこのようなモチーフを弄ぶのは神話的な思考に対する嗜好が根底にあるからではないかと考えたのである。 

つまり、それは一見論理のように見えて論理を超えたところにあるので、作中探偵であるクイーンの論理はそれを後追いするものとしかなりえない。それゆえ、探偵クイーンの推理のうちタイプライターにまつわる部分の論理はかなり巧妙で「犯人当て」的な推理としても成り立つものであるのだけれど、その後の「ダーウィンの進化論」の見立てについての部分は論理というよりは一種の構図のようなものであって、論理ではなく解釈によって探偵クイーンは真相を指し示すが、そこで駆使されるのは「草の三段論法」いわばアブダクションとしてグレゴリー・ベイトソンが提示したような類のものであって、法月綸太郎が「初期クイーン論」で論理の形式化として名指したような論理とは違うものだと思われるからだ。
 実はここにクイーンが神話的なモチーフを作品のなかで多用する隠された理由がある。というのは神話というのは通常の三段論法であるバルバラの三段論法による思考の果実である科学ないし哲学の思考に対し、このアブダクションの論理が駆使される典型的な場であるからで、その意味で神話的な思考とクイーンの論理は親和性が高いと思われるからだ。そして、ダーウィンの進化論が純然たる意味での科学的思考であるのかどうかは現在でも若干の異論も出てくるところであろうが、少なくともこの「悪の起源」におけるそれは科学というよりも一種の神話的な思考のようなものとして捉えられている。

 実はここで記したような分析は「十日間の不思議」にもほぼそのまま当てはまる。こうした後期クイーンの特徴について本稿ではライツヴィルものを中心に後期作品を再考していくなかクイーンについて次に述べるようなことを論証していこうと考えている。

単純に「形式化」「合理性」「明晰な思考」などということだけでクイーンを捉えたのでは「見立て」「あやつり」「ダイイングメッセージ」などというモチーフにこの作家がなぜにこれほどの拘りを見せたのかということについては理解に苦しむところがある、といわざるをえない。法月はこの「初期クイーン論」の脚注のなかで都筑道夫によるクイーン理解を「フェアプレーの精神にもとづく本格長編推理小説の理想的モデル」として紹介したうえで、都筑が「エラリー・クイーンが、はじめのうち理想にちかい作品を生みだしながら、だんだん踏みはずしていった理由は、わかりません」と告白していたことにも言及している。実は都筑道夫が例外的な「踏みはずし」と考えたところにこそこの作家の本質があるというのが私の考えだった。

十日間の不思議

十日間の不思議

simokitazawa.hatenablog.com
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*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:クイーンは事件の全体が「モーゼの十戒」に従って構成されていることから犯人を論証する。