下北沢通信

モノモース「エンドルフィン」@こまばアゴラ劇場

企画・出演:大塚宣幸(大阪バンガー帝国) 玉置玲央(柿喰う客) 藤本陽子(Sun!!改め/DACTparty)
作・演出:山崎彬(悪い芝居)

増え続ける多重人格の妹は、
結婚詐欺師の兄が連れて来た、
記憶喪失の俳優の一人芝居を観る。
妹の五番目の人格は、
俳優が八番目に演じた役が自分たちの母だと気がつき、
兄は十番目の職業のフリをして、のちに母となる女を本気で口説く。
掴めそうで掴めない、どうしても、どうやっても、重なることのできない三人。
共感できるのは、痛みだけ
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モノモース

俳優である大塚宣幸・玉置玲央・藤本陽子による3人ユニット。
2011年のインディペンデントシアター主催の一人芝居のJAPANTOURでの共演をきっかけに同世代の3人が発足。「モノモース」とは、単独・単一の意味(一人芝居で出会った経緯)と3人の干支が丑年ということで鳴き声(モー)から取っている。また、演劇界に物申せるような作品を生み出したいという思いも団体名に込められている。

 若手人気劇団ではあるが山崎彬の悪い芝居はこれまでこまばアゴラ劇場とはやや距離を取って活動してきた。それがやはり最近はこまばアゴラ劇場とはやや距離を取って活動している柿喰う客の玉置玲央らによるプロデュースユニット「モノモース」に新作を書き下ろし演出も担当することになったのが興味深い。「夢の島」を連想させるような廃棄物埋設地となった人工島に置き去りにされてそこでたった1人でサバイバルを計る少年(玉置玲央)とやはりそこに遺棄された盲目の少女(藤本陽子)の物語。だが、この舞台が奇妙なのはその話がそのまま演じられるという単純な構造ではなく、冒頭で、人工島再開発に取り組んでいる役所あるいは企業体の担当者が出てきて、そのうちの1人(大塚宣幸)が瀕死の男に録音させた音声の再生によってそれまで起こった出来事が語られる。そして、その出来事が残りの担当者たち(玉置、藤本)の手で演じられるという趣向になっていることだ。
観劇直後にはまず役者たちの熱演ぶりが印象に残った。特に玉置は山崎にいつもの役柄とはかなり異なるシリアスな役柄を振り当てられた。その役柄は生き延びるために鳥や猫など生きた動物を捕まえて殺し、生のままむさぼり食うというような壮絶なサバイバルを余儀なくされる少年(男)というもので、ここでの予想以上の熱演はきわめて印象的だった。三人の個性的な出演俳優にそれぞれ山崎がやらせてみたい役柄をあてがきしたような舞台であり、役者たちもその期待に見事に答えてみせた、ということだ。
 ところが芝居を見終わってしばらくたって見るとどうもこの作品はそれだけではないようだという微妙な違和感が感じられてきた。そして、そういう印象は日に日に強くなってきているのだ。
まず最初の疑問はこの作品はなぜこんな奇妙な形式を踏んでいるのかということだ。携帯のボイスレコーダーのようなものに瀕死の男が自ら録音した記録ということになっているが、なぜそんなことをしなければならなかったのかがよく分からない。「自分が生きてきた証として記録を残したい」というようなことを最後に言っていて、それは男の心情としては分かるし、納得できなくもない。ただ、奇妙なのは男の残した記録では盲目の少女が亡くなった後、男は彼女の遺骸を海岸まで運んで行って、そこで力尽きて倒れてしまう、ところまでしか語られていないが、実際にはこの録音記録がここにあるということはそこで死んだというわけではなく、ボイスレコーダーを渡した男ないしその組織の人間によって死ぬ前に救われて、どこかに運ばれたということになる。
 この作品では内枠の物語を語るには必ずしも必要がないナレーターのような男を登場させ、それにわさわざ3人しか出演しない俳優のうちの1人を振り当てている。それも不可解だ。内枠の物語にはこの男は不必要だ。ところが、この作品にとって音声記録の存在を観客に示すこの男の存在は不可欠であるということ。
ここまで来たら京都大学ミステリ研出身者の性。私には確信めいた考えが強まってくる。ここにはやはり、ある種の叙述の仕掛けが仕込まれているのではないか? ここで意識したいのは「エンドルフィン」という標題である。物語に何ゆえ脳内麻薬を意味する言葉が関係してくるのだろうか?ひょっとしたら、男の回想は現実に起こったことではないのではないのではないかという疑いがここで浮かび上ってくるのだ。
そういう風に考えてこの物語を再検討してみたい。まず、男(少年)が遺棄されていた廃棄物処分地の島の名称だが「希望の島」(あるいは「絶望の島」とも呼ばれている)とあるがこのモデルは「夢の島」であろう。つまり、ここで物語全体の背景に「夢」があるということを匂わせるような仕掛けがまず用意されている。
 さらに言えばボイスレコーダーの記録が断片とか、とぎれとぎれとか、途中でプツンと切れているとかいうのではきちんとナンバリングされて記録されているということ。少年の時遺棄された男が途中で少女と出会い、少女が死ぬというのが演じられているが、どうも時間の流れがはっきりしないなど叙述に不整合な部分が多々ある。さらに言えば物語の最初の方で、この少年の事例を研究することが人工島の再開発に役立つというようなことが出てくるが、どう考えても1人の人間の生き死にが都市再開発の構想に影響を与えるというようなことは考えにくい。少年は放置されてたが、おそらくモニターされていて、そのために盲目の少女はそこに何らかの目的で意図的に遺棄されたというような話も出てくるが、これもこれがただの再開発のような話なら意図がつかみにくい行為だ。
 あくまでも仮説にすぎないことは承知してほしいが、少年(男)のサバイバルの物語があくまでも実際に起きている出来事ではなくて、昏睡中の少年の深層意識の中での出来事で、少女はいわばその少年の意識に刺激を与えるためのエンドルフィン(脳内快楽物質)のような存在だという解釈は成り立たないだろうか?