POTALIVE「LOBBY」(垣内友香里『ともだち ソロバージョン』)(こまばアゴラ劇場ロビー集合)を観劇。
ポタライブ*1(POTALIVE)とは、「散歩をしながら楽しむライブ」のこと。主宰者である岸井大輔が軽いサイクリングや散歩を表すポタに、演奏・演技・ダンスなどを表すライブを組み合わせて作った造語で、以前からちらっとその存在を聞き、気になっていたのである。
それというのも日本では無機質な空間であることが多い劇場空間以外の場所で上演される演劇(ないしはダンス、パフォーマンス)が個人的に好きであるということがまずあって、ある年などは隔月で執筆していたフリーペパーでの演劇・ダンスの批評で取り上げた公演がまったく意識していなかったのにもかかわらず気がついたらすべて「劇場以外のパフォーマンス」で占められていたことがあったほどである。
その時取り上げたのが維新派、トリのマーク、ポかリン記憶舎、ク・ナウカ、Monochrome Circusといったラインナップだったのだが、いずれも私が昔から注目して大好きな集団なだけにこのまだ見ぬポタライブがどんなものであるかについて、期待とともに興味深々だったわけだ。
ただ、今回については面白くはあったけれど、2つの理由で私の期待はややはぐらかされたというか肩透かしとなってしまった。というのはひとつは今回の公演「LOBBY」が岸井大輔の作・演出によるものではなくて、ワークショップ参加者による作品であったこと。もうひとつは一応、メインの目的が今回はPOTALIVEではなくて、その後に上演されるダンス公演だったために余裕をもって公演に間に合うために選ぶことが可能な5本の演目のなかから時間的な制約もあって選んだのが、演劇作品ではなくて垣内友香里のダンス作品であったことだ。
というのは演劇とダンスを比較した場合、ダンス(特にコンテンポラリーダンス)には劇場以外の空間との親和性が比べ物にならないぐらいに高くて、関西でも伝説となったコンテンポラリーダンスツアーinKYOTOやこのところ毎年開催されているコンテンポラリーダンスツアーin新世界、関東でも隅田川での船上公演や横浜ダンス界隈、あるいは各地をツアーでまわった伊藤キムの「階段主義」など劇場以外での公演の例はそれほど珍しいとはいえないからだ。
それゆえ、おそらくダンス以上に実現へのハードルが高い演劇の公演を見てみないと、POTALIVEならではの魅力というもが本当の意味ではっきりとは見えてこないきらいがあると思われたからだ。もっとも、ここで挙げたものはいずれも即興性が強かったり、そこの場所に行く前からあらかじめ元になる作品が存在しているものが大部分なので、おそらくそれと比べると即興的な要素が限定的で、そこの場所に合わせて作品を作り上げているという意味ではそういう既存のダンス企画とはかなり違う雰囲気も感じられた。
はじまるのをアゴラ劇場のロビーで待っていると、ピンクの服を着た女性(垣内友香里)がガラス張りのロビー正面の道を通り過ぎていく。閉められていたロビーの扉が開かれ、案内人の「彼女についていってください」の声とともにこの日のパフォーマンスは始まった。
無言で少し猫背の女性がゆっくりしかしスタスタと歩いていくのに従って、十数人の観客(参加者)がその後をやはり無言で彼女を遠巻きにしながら後をついていくことになるわけだが、この状況からして冷静になって考えてみると相当におかしい。どこに行くんだろうと思いながらついていくと、垣内は最初の角を右に折れ、石段を登り、井の頭線の踏み切りの手前でとまり、ゆっくりと少しだけ踊りはじめる。その動きはダンスといってもゆるやかなもので、やはりそれを遠巻きにしてしばらくそこに立って彼女の動きを見守ることになるのだが、しばらくすると警笛の音がして遮断機が降り始めると唖然としているうちに脱兎のように踏み切りをわたり、線路の上で一瞬激しく踊るような様子を見せた後、茫然としている観客を取り残して、踏み切りの向こう側に渡りきる。
これにはちょっと驚かされたのだが、こういう日常性のなかにふいに侵入してくるような非日常の瞬間こそ、POTALIVEの特徴なのかもと後から思う。というのはこれはどう考えても即興ではなく、綿密に計算された動きを思わせるところがあったためで、いわばここではもはや井の頭線はひとつの舞台装置のような役割を果たしているわけだ。ここだけではどこまでが演出(計算)なのかがよく分からない。つまり、それはスタートの時間があらかじめ電車の時刻表に合わせて計算されているのか、あるいはそこまでのことはなくて、ここは比較的電車が多く通る路線であるから、その前のゆっくりしたダンスの動きの長さを変化させることで、踏み切りが閉まる瞬間を待っているのかのどちらかが分からないということだ。実はここで「どうなんだろう」と考えているところを列車が通り過ぎるのとほぼ同時に上空を飛行機が通りすぎたので、ひょっとしたら「これも演出では」と思ってしまったほどだ*2。
この後、垣内は東大の駒場キャンパスの構内に入っていき、そこをいわば彷徨するのだが、近くのこまばアゴラ劇場にはしばしば行っているのだけれど、ここに足を踏み入れたのは何年ぶりになるだろう。少なくとも10年は立っていそうな気がするのだが(笑い)。しかし、この日が初めてというわけではないというせいもあるのだが、この大学の特徴なのか、東京はそうなのか不明だが、このおかしな集団が入ってきても、周辺を歩いていたりする学生がほとんど関心をはらう様子がないことにもちょっと驚いた。関西だったら、明らかに不穏な雰囲気がするし、あまりお近づきになりたくないような集団だから、凝視するのも嫌で気になっても見て見ぬふりをする、そういうチラ見がもっとあるんじゃないかという気がするのだけれど(笑い)。
前に「日常性のなかにふいに侵入してくるような非日常」という言い方をしたのだが、そういう枠組みに捉われることで、日常見慣れた風景がまるでマジックリアリズムのようにその様相を変えてみえてくるのがこの作品の面白いところだ。正直言ってダンス自体に食い入って見るほどの面白さが感じられるわけではないのだが、POTALIVEという枠組みには「ケの空間をハレの空間に変える」ことで、周囲の環境に対する観察力を鋭敏にして、木々をわたる風の音であるとか、普段は気づかないものが見えて(聞こえて)くるのが面白いところであった。
さらに中庭のような場所で彼女が踊っている時にちょうど計ったようなタイミングで、校舎のなかの明かりがついたり消えたりしたので、終演後に「あれはひょっとして仕込み」などと思わず確かめてしまった。偶然だったようだが、そういうことやたまたま通り過ぎた人、上空を通り過ぎたヘリコプターまでが彼女の用意した舞台装置のように見えてくる。それが面白かったのである。
ただ、ここまでは今回見た作品の魅力について書いてきたが、やはりこの作品には言葉がないということでの物足りなさは若干残る。というのは「場所」ないし「街頭」における「見立て」の演劇という本来のPOTALIVEのコンセプトではないかと私が勝手に考えているものとはやはり似て非なるものでもあったからだ。言葉が介在する場合はおそらく、そこにその場所の持つ歴史性とか固有性がもう少しはっきりした形でかかわってくるのではないかと想像させるのだが、今回のはかならずしもそういう風なものとはいえないなとも思ったからだ。
岸井大輔自身の作・演出による作品を見てからでなければポタライブがどういうテイストのもので、上記のやはり同じような傾向を持った「場の演劇」「場のパフォーマンス」を志向する集団の作品とどこに同質性があり、どこがはっきりと違うのかというのは判断できないとも思った。過去に上演された作品の感想などを読んで判断する限りは岸井大輔のはもう少しアングラ的というか、寺山修司の街頭劇を受け継ぐような趣向のものかとも思われるのだが、実際のところどうなんだろうか。
「見立ての演劇」という意味では維新派*3が一時期取り組んでいたそれをやめ、ク・ナウカ*4も事実上活動を休止。Monochrome Circusも「収穫祭」プロジェクトを終了。トリのマークも一時期と比べるとリーディング公演的なものが増えて、場合によっては数年ということもあるぐらいに十分な時間をかけて、面白い場所を探し、そこの場所の持つオーラのようなものを純粋に抽出することで作品化していた時期と比べるとそうしたテイストが薄れつつあることが否めない。「humming」で健在ぶりを見せたポかリン記憶舎(明神慈)がいまや孤塁を守る感のあることもある。そういう中で今回のPOTALIVE「LOBBY」を見て岸井大輔への期待が高まったことは確かなのである。
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*1:http://d.hatena.ne.jp/POTALIVE/
*2:アリバイものが成立しうる日本の公共交通機関の定時性を考えればまあないとは思うが、そういうことを考える人がいてもおかしくはないだろう
*3:維新派に関していえば拠点としていた大阪南港を離れ、漂流する演劇を標榜して上演した、奈良・室生村の総合運動公園内県民グラウンドでの「さかしま」(2001年)、岡山・犬島での「カンカラ」(2002年)単に野外劇というにとどまらず、遠くに見える山並み(室生)や立ち並ぶ廃墟となった煙突群(犬島)などの周辺の景色全体を借景するのみではなく、その土地の持つ空気そのものを作品に取り入れ、「見立ての演劇」の上演史に金字塔を打ちたてた
*4:ク・ナウカも活動休止でしばらく見ることができないのが残念。小倉城を借景とした北九州公演や雨の湯島聖堂での上演が忘れがたい印象を残した「天守物語」、細川侯爵邸での三島戯曲の上演も印象的であった