「Accumulated Layout」
「while going to a condition」
梅田宏明とは?
1977年生まれ。2000年より創作活動を開始し、「S20」を発足。02年に発表した『while going to a condition』がフランスのRencontres Choreographiques Internationalsのディレクターであるアニタ・マチュー氏により、「若くて有望な振付家の誕生である」と評価され、同フェスティバルで公演。03年にカナダ・モントリオールで『Finore』、04年にブラジル・リオデジャネイロで『Duo』、フィリップ・ドゥクフレ氏のスタジオでのレジデンスの後、07年にフランスのシャイヨー国立劇場との共同制作である『Accumulated Layout』を発表。ベルギーのKunsten Festival、ロンドンのBarbican Centre、ローマnoRome Europe Festival、パリのポンピドゥー・センターなどヨーロッパを中心に世界各地の主要フェスティバル・劇場に招聘されている。自身の作品では振付・ダンスのみならず映像・音・証明デザインまで担い、「振付家、ダンサーというよりVisual ArtistでありMoverである」と評価され、ダンス以外の分野からも受け入れられている。 http://www.hiroakiumeda.com/
振付・出演:梅田宏明(S20)
主催:兵庫県 兵庫県立芸術文化センター
梅田宏明については海外を中心にその活発な活動ぶりの噂は耳にしていたのだけれども、実際に目にするのは2002年のRencontres Choreographiques Internationalsの横浜プラットフォーム以来のこととなった。その時の作品がこの日最初に上演された「while going to a condition」である。この日はこの作品と2007年に初演された「Accumulated Layout」との2本立ての公演だった。
実は2002年の分の旧サイト「下北沢通信」はコンテンツで消えてしまっていて参照できないけれど、私自身は横浜のコンペティションでの梅田の受賞という結果に対して非常に懐疑的であった。その理由は2つあって当時バニョレ振付賞と言われていた賞に対して彼のダンスの「振付」が受賞に値するほどのオリジナリティーがあるとはどうしても思えなかったこと。もうひとつは作品の完成度はその時も一定以上の水準とは思ったがそれは主として音響・映像による空間構成に伴うものであって、それはメディアアートとしてはともかく、やはりダンスと考えるとどうか疑問があつたこと。以上の2点であった。
その後、少しバニョレという賞(というか当時はRencontres Choreographiques Internationalsというダンスショーケースになっていたわけだが)の性格が少し分かってきて、なぜこの時に梅田が受賞したのか、そして現在も欧州を中心にオファーが途切れないほどあるのかということが分かってきた。
つまり、振付(ムーブメント)においてはどことなく勅使川原三郎めいた匂いがするところ、そして、もうひとつはメディアアート作品としてどこかダムタイプを彷彿とさせるところがあってそれが評価を躊躇させる大きな理由になっていたのだが、おそらくその同じことがフランス人のプロデューサーが評価し欧州で人気がある理由となっているのだと思う。
もちろん、厳密に検証してみれば梅田は勅使川原三郎ともダムタイプとも違う。というか勅使川原三郎とダムタイプは互いに似ているわけではないので、両者に似ているということはそれだけでどちらにも似ていない、梅田独自のオリジナリティーだといえなくもないわけだ。
もっともそれぞれの要素についてもより綿密に比較をしていくとそれほど似てはいない。類似を感じさせるところがあるのはむしろ構えの一部に共通点があるからかもしれない。ダムタイプと似ていると書いたが実は梅田の作品は具体的にダムタイプの舞台作品に似ているというわけではない。あえて類似を探せば「Accumulated Layout」などはテイストが「OR」の前半部分に似ているかもとも思うが、本当に似ているものがあるとすればそれはむしろパフォーマンス作品ではなくて池田亮司による映像・音響インスタレーションにかもしれない。
池田亮司
http://www.youtube.com/watch?v=UThatQbcO8I&feature=player_embedded
それでも両者を実際に聞き比べてみる、あるいは見比べてみると感触にかなり大きな差異があることは分かってもらえると思うけれども、それでも梅田の作品がはやはりダンス作品というよりは本人の身体を一種のオブジェとしてその中に置いた空間インスタレーションに近いことが分かる。そのシェイプはクールでかつシャープであり、カッコいいのだが、身体表現としてはあまりに内実に乏しいといえなくもなく、しばらく見ていると少しもの足りなさがなくもない。もっともそういう感覚は美術で抽象絵画を前にした際に時折襲われる感覚に少し似ていて、だからこれはだめというのじゃなくて、これはそういう種のものなのだと考えるべきなのかもしれない。