下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「踊りに行くぜ!!II(セカンド)」in福岡@イムズホール

「終わりの予兆」 
作・演出・構成:上本竜平/AAPA
「カレイなる家族の食卓」 
作・構成・演出:村山華子
「SOSに関する小作品:パート1(仮)」 
構成・演出・振付:タケヤアケミ
地元作品:
福岡地元コミュニティダンス作品

「踊りに行くぜ!!II(セカンド)」in松山のレビューを加筆 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20110114 @JCDNtweet
 地元作品のコミュニティダンスは5時からのスタートだったため見ることができず、企画募集作品2本とレジデンス制作のタケヤアケミ作品の3本を見た。
 「カレイなる家族の食卓」は松山に続き2度目の観劇。コンテンポラリーダンス作品として、この作品の方向性についてはやはり若干の疑問はあるのだけれど、松山での上演と比べると格段に完成度が上がっている。娯楽性が高くて、見ていて単純に楽しいし、この日見に来ていた子供たちも楽しく見ていた。この「カレイなる家族の食卓」は作・構成・演出:村山華子が近藤良平(コンドルズ)の作品に美術として参加したことがあるためか、映像、美術、影絵などを組み合わせた表現は分かりやすく、楽しい。こういう誰でも楽しく見られる作品は日本のコンテンポラリーダンスでは珍しいので貴重である。
 おそらくこの舞台がコンテンポラリーダンス系のコンペティションで賞を受賞するということはほぼありえないが内容的には例えば最近近藤良平や伊藤千枝が挑戦しているような親子で一緒に見る「おやこ劇場」向きの作品として見ればものすごくよくできた作品に仕上がっている。「踊りに行くぜ!!」のようなコンテンポラリーダンスの普及も目的としている公演のラインナップのなかに1本こういう作品が入っていると垣根を低くするという意味では今回の福岡公演についていえば非常に重要なことであった。 
 ただ福岡公演ではこの「踊りに行くぜ!!II(セカンド)」の企画としての難しさが露呈したのではないかと思う。というのは残りの2本について可能性は感じても完成度において大きな問題があり、おそらくこの「カレイなる家族の食卓」がなかったら興行としては成立しがたかったのではないかと思ったからだ。
 作・演出・構成:上本竜平/AAPAの「終わりの予兆」は最近よくある「演劇なんだか、ダンスなんだかよくわからない」系の舞台。この舞台には元山海塾のダンサーで以前チェルフィッチュにも出演していたトチアキタイヨウが出演していて、作風も舞台上の男がなにか台詞のようなモノローグを饒舌にしゃべり続けており、それに映像と日常的な身体所作を思わせるダンスが組み合わせられるというちょっとチェルフィッチュを思わせるようなところがあり、始まってしばらくは期待して見ていた。ところが、しばらく見ているうちにその期待は急速にしぼんでいった。
 言葉と身体の関係性についての作者の思考がどうもあいまいで、十分に考え抜かれていないのではないかということが舞台の進行に従って露呈していったからだ。作品がスタートしてしばらくはこの作品において語られる言語テキストとパフォーマーそれぞれの身体所作がどのような関係にあるのかを考え続けた。というのはこの舞台で語られる言葉はどう考えても演劇のように意味を持つ言葉であってその意味の世界における構造化が作品の構造を決めているはずだと考えたからだ。
 ところがしばらく見ているうちに語られている言葉の意味は「犬がどうした」とかかなり脈絡のないものでしかも例えばチェルフィッチュのセリフがそうであるように人物や出来事について語られるわけではないので、どうもパフォーマーの動きとの関係は薄く、そこになんらかの関係性を読み取ろうとしばらく格闘したもののそれは無理でひょっとしたらコラージュ的に並置しているだけで、複雑に構造化されたような関係はないのではないかと思われてきた。
 これは正直言って見る主体を消耗させるもので、次第に集中力を失っていかざるをえなかったのだ。作り手は別にセリフは音楽のようなものなので意味はなくてもというのかもしれないが、それは無理だ。というのはこの場合、関係性をどうしても求めるのは観客がセリフを聞き取る時には言葉は持続的な時間においてそこに集中することを要求する(断片をつなげば読み取れる動きと言葉は異なる)からだ。
 実際後半はなんとかふたたび作品に集中しようという努力をしながら動きだけに集中しようと試み、それで少しだけ動きの面白さを感じたのだけれど、正直言って言葉が動きへの集中を阻害して注意を散漫にさせるような構造にこの作品はなっていたのだ。実は実際に会場を観察してみると私の左後ろの年輩の観客などは完全に退屈してしまって私語をして隣の人にたしなめられていたし、やはり左にいた女の子もすっかり退屈してしまっているのがありありと分かった。延々と話されているモノローグがなぜ重要なのかというのはやはり最後まで分からなくて、この作品はやはりもっと徹底的に言葉と動きの関係性について考え続けることが必要だと思った。
 一方、タケヤアケミの「SOSに関する小作品:パート1(仮)」の方は言葉(意味)と動きの関係性についての思考の跡は感じられるが、そのコンセプトの面白さが作品内で十全に生かされるには時間が足りず練りこみが不足していたようだ。この作品は3部構成になって1部では31の言葉「つつみこむ」「曲がる」……が31の「身体言語」ならびにそれを象徴するような「記号」へと変換される。ここのところはそれなりに面白く、これが先の展開にどのように生かされるのだろうと期待が高まるのだが、問題は2部、3部と1部で提示された「身体言語」=「言葉」との(メタ)関係性が判然としないまま作品が終了してしまった。
 実は3部は単独のパフォーマンスとしては面白いという表現があたるかどうかは別にして、テープを貼られてぐるぐる巻きにされる女性はなにか現代社会における閉塞感や生きにくさを象徴しているようなところがあり、興味深くはあった。だが、こちらも1部との関係はどうなのかということを考えざるをえないため、十分には享受できず狐につままれたような思いを抱きながらパフォーマンスは終了してしまったのだ。
 実は個人的には可能性としては「終わりの予兆」「SOSに関する小作品:パート1(仮)」はすでに完成の域にあると感じられる「カレイなる家族の食卓」と違い、ここからなにかとんでもなく新しいものが出てくるかもしれないとの予感は感じた。その意味でこの福岡公演で上演された3本がまた再演される伊丹公演ではどのような作品に変化しているかは大いに楽しみだ。
 ただ、それはあくまで可能性にすぎず、福岡公演に実際に見に来た観客にとって「そんなことはあずかりしらぬこと」と言われても仕方がないことも確かだ。この日の公演での実際の観客の反応を見る限りは「カレイなる家族の食卓」があったため、面白かったとある程度満足して帰った観客の多くがもし残りの2本のようなものが3本とも並ぶラインナップだったらもう2度とコンテンポラリーダンスの公演に足を運ばない可能性が特に地方の場合はありえぬことではなく、最終的にいい作品になればいいというのではなく、このリスクをどう回避していくかという戦略も今後この企画を継続していくためには必要だろうと考えた。