下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

『新しい小説のために』刊行記念 新しい小説のためのプログラム@三鷹SCOOL

『新しい小説のために』刊行記念 新しい小説のためのプログラム@三鷹SCOOL

日程

10月29日(日)16:00開演

料金

予約2,500円 当日2,800円(+1ドリンクオーダー)


10.29 SUN 16:00
開場は開演の30分前からになります。

拙著『新しい小説のために』(講談社より10月26日発売)刊行にかこつけて笑、「新しい小説」をテーマとして小さなフェスティバルを行ないます。
発売から数日後の開催でもあり、オマケに分厚い本なので、本の内容から思い切って離陸して、歴史的概念としての「小説」や「フィクション」について多面的に思考する内容にするべく何組かの方々に声を掛けました。僕の妄想と無茶振りに応えてくれる出演者の皆さんに感謝です。
この時、この場でしか観れない/聞けない出来事が連続する筈です。
もちろん拙著も販売します。どうぞよろしく。
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佐々木敦

●キュイ新作短編『演劇・移人称』
作:綾門優季
演出:綾門優季橋本清
出演:橋本清、井上みなみ(青年団
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●滝沢朋恵ライヴ(委嘱新曲「小説」初披露)
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●いぬのせなか座「私らの距離とオブジェクトを再演する/座談会6」
出演:いぬのせなか座(鈴木一平、なまけ、山本浩貴+h、etc.)

●上妻世海×佐々木敦 対談「新しいフィクションのためのプログラム」
scool.jp

青年団リンク キュイの「演劇・移人称」面白かった。冒頭で綾門優季、井上みなみ、橋本清の3人が登場して、今回の公演が本番に間に合わずに公演への参加を見送らざるを得なかった顛末をこれから話すというように断って、実話ドキュメンタリー風に舞台が始まるフェイク(似非)ドキュメンタリー演劇。
 次のシーンでは綾門(松島)の母親がたまのコンサートに行くはずだったのを頭の中から声を発する何者かに止められるという最近フェスティバル/トーキョーで柴幸男が上演した「わたしが悲しくないのはあなたが遠いから」を想起させるようなシーンにつながりここから綾門自身の自伝的な物語が展開していく。
 もちろん、それはそれほどシリアスなタッチで語られるわけではないし、稽古場で出演して演技をしようとしていた綾門が井上みなみに「綾門くんは下手だから出なくていい」と言われ、直後からは綾門の役が綾門本人から井上に移るなど、ところどころに自虐的な要素を交えて笑いをとりながらも、役と俳優が1対1対応をしておらず、次から次へと移動していくという、この芝居のルールを提示していく。
ただ、それが演劇における移人称の表現であるのかというと疑問はある。実は綾門自身も自ら書いて批評再生塾に提出した論考において演劇において小説のような意味での移人称というのは成り立たない、それは役者がいることが前提であるからと論じながらも実作における例を論じているのだが、その論考においてあえて積極的な論評を避けているかに見えるチェルフィッチュを除けば決定的なモデルを見いだせないでいるように見えた。

 井上みなみが凄かった。演技もそうだが、綾門優季の脚本が上がったのが、本番わずか4日前という危機的状況なのにもかかわらず、膨大なセリフ量のセリフを覚えるのはもちろん当たり前で、20役にならんとする役柄を演じ分けていて、まさにリアル北島マヤ。彼女でないと成立しない作品だったのではないか。
 「移人称」に関しては文学系の論者が岡田利規の作品を語るときによく使うようなのだが、演劇にわざわざ小説分析のツールである概念を持ち込むことには違和感がある。とはいえ、今回は佐々木敦の依頼の設定がそうだったようなので、そのことで綾門を批判したりするのは筋違いだったかもしれない。佐々木がそれについてどんなことを書いているのかは本を読んでからもう一度考えてみたい。
school.genron.co.jp

新しい小説のために

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