下北沢通信

中西理の下北沢通信

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勅使川原三郎振付KARASアップデイトダンスNo.47「静か」@荻窪アパラサス

風が止み 静止の後の動きに 静かがやってくる
身体から湧き上がる沈黙
沈黙の間合い 沈黙の木霊

出演 勅使川原三郎 佐東利穂子
演出/照明 勅使川原三郎

音楽をいっさい使わず無音の中で勅使川原三郎と佐東利穂子が踊るデュオ作品である。無音であることから無音というのは劇伴音楽を使わないだけであって、空調の音、観客の呼吸音などこの小さな空間は音に満ちているというような感想があって、それはジョン・ケージの「4分33秒」のコンセプトを思い起こさせる。
ただ、そこには決定的な違いがあると思った。それは「静か」には2人のダンサーの身体とそれが空間の中で動き回り、踊るということだ。だから、「4分33秒」では観衆は演奏者であるオーケストラを見なくて目を瞑ってただ会場の音を聴いているのも鑑賞の態度として正しいといえそうだが、「静か」の眼目はあくまで舞台の空間のなかにダンサーがどのように存在して、あるいは動いているかにあるからだ。
ローザスのアンナテレサ・ドゥ・ケースマイケルはあるドキュメンタリーの中で自らのダンスのことを「時間と空間の構造(ストラクチャー・オブ・タイム・アンド・スペース)」と何度も語ったが、「静か」は音楽が存在しなくても、あるいは音楽が存在しないことで我々の目に高い純度で「時間と空間の構造」が可視化されるのを感じることができた。
 しかも音楽を使えばその種類にもよるが音楽はそれを聴く者の脳裏に特定のイメージを投影するもので、勅使川原の最近の作品でもワーグナーの楽劇を使用した「トリスタンとイゾルテ」が典型的にそうだが、舞踊は音楽との関連においてある意味性を孕んで受け取られることになる。
 「静か」にはいっさいそういうことがない。観客の我々も純粋にダンス自体と向き合うことになる。そしておそらくダンサーも動きは即興ではなくてある程度あらかじめ設定されたものだとしても、何かを演じたり表現したりという方向には意識が向かわず、そこで毎日再現されるごとにリクリエイトされる動きのディティールのなかに不断に動きが生み出され続けるのを体験することになる。動きは最初、揺らぐようにゆっくりとした微細なものから次第にゆったりとしておおきなものや時に鋭い動きなどに変容していくが、その中にはこれまでの勅使川原作品のよく出てくる手癖的な動きではない動きも散見されてそこにハッとさせられるような面白さを感じた。