下北沢通信

中西理の下北沢通信

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KARASアップデイトダンス No.76「ピアニスト」(演出・照明・美術 勅使川原三郎)@荻窪アパラタス

KARASアップデイトダンス No.76「ピアニスト」(演出・照明・美術 勅使川原三郎)@荻窪アパラタス

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サイトにあるコメントに「無数の既成曲と何人ものピアニストに演奏を微細解体して再構成した途切れない音楽を演奏する架空のピアニスト誕生」とあるので、今回の作品ならびに音楽はそうした趣旨のものと考えながら見ていた。ところが、終了後にこの公演では必ず行われている勅使川原三郎自身による自作解題的な挨拶で今回使用した音源はグレン・グールドの「ゴルドベルグ変奏曲」だと明かされた*1。先入観とは恐ろしいものだと感じたが、もしそうなら何度か聞いたこともあるし。当然気づいてしかるべきだった。それほどだめだめな人間の感想であるということを前提として受け取ってみてほしいが、超絶技巧のピアノ演奏に合わせてのハイテクニック(高等技術)のダンスである。特に佐東利穂子の動きの切れ味が凄まじい。
 グレン・グールドの音源に気がつかなかったのは音源化されたものをそのまま流したのではなく、断片化して、つなぎ直していたせいもあるかもしれない。ただでさえ、バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」はモーツアルトやベートーベンのように曲全体の構造がたどりやすい音楽とはいえないが、今回はさらに切断されているために全体としての構造はほとんどたどれず、それゆえに見ている方はピアニストが奏でる音そのものとそれに対峙するダンサーがどのように渡り合うのかにフォーカスして、細部を聴き、見ることになる。すぐに気がつくのは佐東のダンスが音と切り結ぶ時間単位の短さであり、極端なことを言えば彼女のダンスはピアノの一音一音に対して反応しているようにさえ見えてくる。
 途中から勅使川原も踊りに加わるが、最近の音楽に例えればBPMのまったく違う音楽を同時に進行させているように風に見えてくる。日本のコンテンポラリーダンスにおいては勅使川原三郎は先人の舞踏などと比較して「速いダンス」の代表のようなところがあったが、この作品での佐東のダンスなどを見ているとまるで違う時間軸にいるようにさえ見える*2

無数の既成曲と何人ものピアニストに演奏を微細解体して
再構成した途切れない音楽を演奏する架空のピアニスト誕生。
人造ピアニストが人工自然にダンスを導く行き先はどこ?
勅使川原三郎

演出・照明・美術 勅使川原三郎
出演 勅使川原三郎 佐東利穂子 

*1:微細に再構成した音楽、そして原曲。 人工自然の中に私たちのダンスの行き先は? 解体された、いや切り刻まれた楽曲、 私はそこに特別な音楽性を感じた。 原曲ゴルドベルク変奏曲はグレン グールドの演奏で 新たなバッハを提示したが、 すでに新しくはないしその必要もなくすばらしい。 ピアニストによって生成される音楽、 ピアノによって発せられた幾多の音の連なり、 私たち踊る者はそれら無数の響きを追うのではない。 同時に生成される身体の内と外に動きを発する。 ピアノをもたない私たちは問いつづける。 なぜ踊るのか?それはどこへ向かうのか? グールドが尊敬したリヒテルの言葉、 「私はピアノより音楽を好みます。」 私たちはその時、 身体を強く傾けて一歩出す勇気を与えられる。 すばらしいピアニストたちへ感謝。

*2:佐東に匹敵するようなBPMをダンスで感じるのは東野祥子ぐらいかもしれない。