下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ミクニヤナイハラプロジェクト vol.11「曖昧な犬」@吉祥寺シアター

ミクニヤナイハラプロジェクト vol.11「曖昧な犬」@吉祥寺シアター

2018年3月22日(木)~3月25日(日)


『あんな所に小さい窓が、本当だ、
窓だ、でもあんな高いところじゃ』

全てが崩壊に向かう部屋で、
たとえなにもない閉ざされた世界にあっても、
それでも「最期まで生きる!」ことの意味を問う。
圧倒的な台詞と運動量で演劇界に衝撃を
与えたミクニヤナイハラプロジェクト最新作。



[作・演出] 矢内原美邦

[出演] 石松太一、菊沢将憲、細谷貴宏

[技術監督] 鈴木康郎 [舞台監督] 湯山千景
[映像・美術] 高橋啓祐 [照明] 南 香織(LIGHT-ER)
 [宣伝美術] 石田直久 [絵] 松本 崇
[企画・制作] 株式会社precog

主催:ミクニヤナイハラプロジェクト
共催:公益財団法人 武蔵野文化事業団
助成:芸術文化振興基金
アーツカウンシル東京
(公益財団法人 東京都歴史文化財団
特別協力:急な坂スタジオ
協力:ON VISUAL、近畿大学矢内原美邦研究室
SNOW CONTEMPORARY、青年団、ばけもの

どこにあるのだかよく分からない閉ざされた部屋に男たちが閉じ込められているという不条理劇。具体的なことは何も分かってこないが、全体の構造自体は我々は実はこの男たちのように突然生まれ、そして理由も分からずに死んでいくんだという人生のメタファーのように見えてくる。その意味ではきわめてベケット的な世界といえるのかもしれない。
 この作品のもうひとつの特徴は3人の俳優がたえず走り回ったり、跳んだり、早口で大声のセリフをしゃべる続けるなどの一定以上の身体的な負荷を受け続けることだ。ポストゼロ年代演劇ではこうした手法は祝祭的な空間の構築につながることが多く、それは震災後の舞台芸術のあり方にひとつのムーブメントを引き起こすことになった。
 身体に負荷をかけるような表現の先駆となったのが東京デスロックの多田淳之介とニブロール矢内原美邦だが、実はこうした表現も多田や矢内原が最初に用いた時には祝祭性というより、「どうしようもなく疲弊していく身体」(多田淳之介演出「再生」)とか「現代生活における生きにくさ」(矢内原美邦演出「コーヒー」)を表象するようなものだった。
 それが意味合いを変転させていったのがおそらく3・11以降の時期に「再生」が「再/生」として再演されたり、黒田育世やマームとジプシーなどがそうした身体の蕩尽(酷使)をある種の祝祭あるいは救済にと転化させていったからかもしれない。
 それに対して「曖昧な犬」は特にベケット的な閉塞空間と身体の蕩尽を重ね合わせることで、不条理の構造を際立たせたところにその持ち味があるといえるかもしれない。矢内原美邦とはまるで異なるアプローチではあるが、実は俳優が次第に土中に埋まっていき最後は首だけになってしまう「Happy Days」などどこにも行けないという構造的な不条理(閉塞感)と身体的な負荷を重ね合わせるという実験をすでに試みていた。
 このように考えると昨年、東京デスロックが多田淳之介の演出でベケットの「Happy Days」を上演したのと相前後して、大阪でミクニヤナイハラプロジェクト 「曖昧な犬」の初演が上演されたのは最近の日本を覆いこんでいるなにか閉塞感や不条理感のようなものとが結びつくからということもあり、偶然というわけではないのかもしれない。