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中西理の下北沢通信

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連載)平成の舞台芸術回想録第二部(6) 東京デスロック「再生」

平成の舞台芸術回想録第二部(6) 東京デスロック「再生」

 青年団演出部所属の演出家、多田淳之介が率いる東京デスロック平田オリザ流の群像会話劇から出発したが、2007年よりスタートした「unlockシリーズ」で演劇の最大の魅力を「目の前に俳優がいること」にフォーカスし、俳優の身体的な「疲れ」を前面に押し出す作風に転換した。1990年代半ばから始まった現代口語演劇の隆盛は広く現代演劇の全体を覆う勢いをみせ、それは2000年代(ゼロ年代)になっても続いたが、そうした動きを変えるきっかけとなったのが、岡田利規チェルフィッチュ)と多田淳之介(東京デスロック)の2人だと考えている。 

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東京デスロック「再生」
 群像会話劇の作家であった多田が方向転換するきっかけとなった作品が「再生」(2006年初演)だ。作品は東日本大震災前のものだが、震災後に多く見られるようになった「身体に負荷を与える演劇」(祝祭の演劇)の代表として、後発の若手作家たちに大きな刺激をを与えていった。
 多田は作品を展開する際にまず「遊戯的なルール」を設定する。「遊戯的なルール」というとパソコン上で展開されるコンピューターゲームみたいなものが連想され、これはゲーム的リアリズムなどにもつながっていくわけだが、東京デスロックの場合、そういうゲーム的感性と同時にそれを演じるのがあくまで二次元キャラではなくて、生身の人間なのだということからくる摩擦のようなものを舞台に載せているところが大きな特徴だった。
 身体的な「疲れ」などのアンコントロールなものを舞台上で提示するという手法は野田秀樹夢の遊眠社あるいは最近では矢内原美邦ニブロールミクニヤナイハラプロジェクト)の前例がある。SPAC(当時ク・ナウカ)の宮城聰はこれを「生命の一瞬の燃焼のきらめき」などと呼び、日常性に絡み取られて社会的な存在となっている人間が失ってしまっている生きている人が持つ根源的な力を舞台上で見せることが演劇の一つの使命であると語った*1ことがあるが、そのための方法論として赤ん坊とか、老齢のダンサーであった大野一雄のような特権的身体ではない普通の人がこれを表現するためにはなんらかの仕掛けが必要だと述べた。そのひとつの方法として激しい身体的負荷を挙げていたと記憶しているのがこれは例えば「エロティシズムは、死に至るまでの生の称揚である」というバタイユの蕩尽理論などにも通じるところがあるかもしれない。
 「再生」は演技スタイルとしては会話劇なのだが、表題の通りに同じストーリーが舞台上で3回繰り返される。かろうじて物語の設定として、当時話題になっていたネットによる集団自殺という主題があって、いろんなところから集まってきたらしい若者らが一緒に鍋を食べて、踊り狂った狂騒の中で次々と倒れて死んでしまう。ところが、実はこの舞台で重要なのはそういう表面上の筋立てだけではない。相当以上に激しい動きをともなう演技が3度繰り返されることで、繰り返されるうちに俳優の身体そのものが疲弊してきて、意思するようには動けなくなってしまう。それを舞台上で生まのものとして見せることで、舞台上での「死」と「疲弊」が二重写しになってくるという仕掛けがあった。
 2011年には繰り返し再生(リピート)される楽曲に合わせて特定の身体所作が繰り返される「再/生」として完全再構成され、同年の「再/生」ツアーにて現地上演作品として、多田淳之介+フランケンズ版(横浜)、KAIKA 劇団 会華*開可版(京都)、渡辺源四郎商店版(青森)など様々なバージョンを国内上演、第12言語演劇スタジオとの共作で日韓版をソウルにて上演。2015年には快快(FAIFAI)が岩井秀人氏(ハイバイ)演出にて上演され、大きな反響を呼んだ。
 2012年にはダンサーを集めて同様のコンセプトのパフォーマンスを構築した「RE/PLAY」*2も製作。こちらはその後、国際共同制作作品としてシンガポールカンボジア、フィリピンなどのアジア各国を巡演、大きな舞台成果を上げる*3ことになった。

「RE/PLAY」は基本的には「再/生」のコンセプトを受けついだもので、多田の作品の場合、動き自体は特定の振付を振付家が与えるわけではなく、パフォーマー自身が提出するものであり、この場合はダンサーである出演者がそれぞれ自ら創作したものであるため、動き自体はダンスと言ってかまわないのだが、全体の構造は多田が用意した演劇的な仕掛け(繰り返すことで疲弊していく身体)に支配されているため、あえて言うなら「演劇作品」であるはずのものであった。
 今回は同じ動きを3回繰り返すというのではなくて、「RE/PLAY」という表題の通りにレコードプレイヤーの針を戻して同じ曲を何度も何度も繰り返すように最初にオープニングとしてサザンオールスターズの「TSUNAMI」が2度ほど繰り返した後、ビートルズ「オブラディ・オブラザ」がなんと10回連続でかかる。この後、「ラストダンスを私に」になど「再生」以来おなじみの曲と相対性原理、そして最後の方でPerfumeの曲が繰り返しかかったころにはほとんどの出演者は疲れ切ってだめだめの状態で、まさに多田(釈迦)の手の平に乗る孫悟空のように予定通りの有様だった。
 ところが「あるはず」と書いたのはこれまで見た多田の作品では必ず起こっていた疲弊のようなことを超越して、ただただ踊り続ける1人のダンサー(松本芽紅見)がいたからだ。松本ももちろん疲れていないというわけではないのだろうが、ほかの人が次々と限界を迎えていくなかで、疲れれば疲れるほど一層気合が入ってきて、動きの無駄が削げ落ちきて、神々しいまでの存在感を見せ始める。一瞬赤い靴を履いたバレリーナのことさえ思い出させるその姿はまだに「ダンスそのもの」を思わせた。これは作品のコンセプトを吹き飛ばしてしまい、逆説的にそこに演劇(=意味性)を超えた「ダンスというもの」を逆説的に浮かび上がらせた。


TOKYO DEATHLOCK 『再生-REPLAY-』10min ver.


TPAM 2010 (8 of 17) Tokyo Deathlock
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