概念芸術としてのMonochrome Circus「収穫祭」
中西 理<演劇コラムニスト>
Monochrome Circusの「大収穫祭2003 ~春・夏・秋・冬~」を京都芸術センターで見た。この集団がCreative Curcuitと題してこの1年間を通じて行ってきた活動の集大成である。カンパニーメンバーに加えて、出前パフォーマンス「収穫祭」などを通じて知りあったタイ、韓国、アメリカの演出家、俳優、ダンサーらが今回の舞台には参加、舞台は映像でさまざまな出会いの場を紹介しながら、それを生で演じられるパフォーマンスと組みあわせることで、出会いを再現していくという一種のドキュメンタリーコラージュとして展開される。
坂本公成の率いるMonochrome Circusが面白いのは作品自体もそうなのだが、集団活動の向かっている方向性である。こういうカンパニーはちょっと東京には出てこないのじゃないだろうか。
鍵盤ハーモニカやギターのようなアコースティックな楽器の生演奏をダンサー自らが手掛けるミニコンサートの形式を取りながら、それをバックにダンスの小品を観客の目の前で踊ってみせる。これが「収穫祭」のコンセプトなのだが、これまで日本だけでなく、フランス、ドイツ、アメリカ、韓国など200回に近い場数を踏んで来ただけに、呼ばれて行く場所のロケーションや観客に合わせてその内容は臨機応変に変化していく。
「収穫祭」には人と出会うことでいろんなアートを収穫してくるという意味もあり、今回の「大収穫祭」でもこれまでの「収穫祭」の演目にゲストパフォーマーが参加して一緒に踊ったり、民族音楽、ダンスなどでそれぞれの得意技を披露しあったりする。それでいて、ただの合同発表会にはならずにひとつの作品としてのまとまりを見せているのは坂本公成の構成力のたまものだ。その手付きはソースのしっかりとした味付けを堪能させる西洋料理のシェフではなく、あくまで旬の素材の生きのよさを生かした日本料理の匠を思わせる。実は坂本はこの公演の前に行なわれた東京公演「Float」で見せた照明効果を計算し尽くした巧みな空間構成などから分かるように西洋料理の腕もあるのだが、自ら調整型のアーティストと称するだけあって、こうした生の素材のさばき方にこそ、その手腕はより鮮やかに発揮される。
アーティストが劇場から街にでて活動する行為はアウトリーチと呼ばれ、芸術の社会貢献の側面などから最近注目度が高くなっている。「収穫祭」の場合もそういう狙いもないではないが、そういうことよりも呼ばれたところにはどこでも出掛けていって、その場に集まった人と音楽とダンスを通じて交流することでひとつの場を作っていって、その行為自体が作品となるというコンセプチャルアートとしての要素が強い。
しかも海外での公演も京都でだれか知人の家に出掛けていくのも基本的に同じというフットワークの軽さが特徴で、それが成立するのは音楽とダンスというどこの国の社会(コミュニティー)でも根源的なコミュニケーションツールとして重要な役割を果たす音楽とダンスを武器にしているからこそであろう。
音楽にしてもダンスにしてもだれにとっても親しみやすいものをなどの気遣いが裏目に出てアートとしてはとんでもなく陳腐なものになりかねないのを微妙なバランス感覚で流行は追わないけど古くさくもないいわば「ダさ恰好よさ」をキープしている。常に海外の動向も含めて最新の動きに目を配りながら、センスのよさを互いに競い合ううちに自分を見失っていくことがなくもない東京のある種のアートシーンとは大きく違うところで、ここの辺りがなんとも京都的と思わせるところなのである。
P.A.N.通信 Vol.44掲載