下北沢通信

中西理の下北沢通信

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グループ・野原「自由の国のイフィゲーニエ」@こまばアゴラ劇場

グループ・野原「自由の国のイフィゲーニエ」@こまばアゴラ劇場

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青年団演出部の鬼才、蜂巣もも演出によるドイツの現代劇作家の上演。新たな試みがいろいろ試されていて刺激的な部分は多いのだが、演劇として受容しやすいものなのかと聞かれると首をかしげたくなってしまうところが多々ある。それがなぜなんだろうと考えていて、ふと思ったのは今回の作品「自由の国のイフィゲーニエ」*1では戯曲作品そのものにすでに作者であるフォルカー・ブラウンの意図による実験的な形式が試みられていて、今回さらにそれがオーソドックスな演出・演技による上演ではなく、蜂巣ももの独自な工夫による演技のさせ方や見せ方による二重にデフォルメがかけられており、全体としてどこがどうなのかという意図が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じたのである。
それというのは蜂巣ももの演出作品で過去に見て面白いと感じたものがいくつかあったが、別役実*2ベケットといった現代作品ではあるけれどすでに定番のオーソドックスな演出・演技というのものが成立している現代の古典といっていい作品であり、蜂巣ももの演出はそこにある種の異化効果として新たな見方を付与しているという二重構造があった。
ところが、この「自由の国のイフィゲーニエ」という作品はおそらく本国ドイツでの上演では今回とはかなり違った戯曲の提示に沿ったオーソドックスな上演がされたのではなかろうかと思われる。
 戯曲自体は四幕構成で、それぞれの幕により内容も形式もかなり異なるものとしてされている。かなり実験的な形式なのだ。戯曲原テキストを翻訳により確認してみた。「鏡のテント」「自由の国のイフィゲーニア」「野外オリエンテーリング」「古代の広間」の4部構成。
 全体の表題である「自由の国のイフィゲーニア」のからうかがえるようにギリシア神話に登場するオレステスエレクトラ姉弟の姉であるイフィゲーニアにまつわる物語を東西統一後の旧東ドイツ地域の状況と重ね合わせてあるようだ。
 エウリピデスの「タウリケのイピゲネイア」から材をとったと思われるが、ドイツ語圏の作品だと考えるとギリシア悲劇の原典というよりはゲーテの「タウリス島のイフィゲーニエ」を下敷きにした部分もあるのかもしれない。
 戯曲はト書きとセリフの区別はなく、個々のセリフを誰が喋るかという指示もない、ストーリーのようなものも目に見える形では現れない。一般にもより有名なハイナー・ミュラーとはかなり質感が異なると本国ドイツではみなされているようだが、日本人の目から見れば現代ドイツに典型的なポストドラマ演劇を志向した言語テキストとして両者にかなりの類似性が感じられる。
 四幕はそれぞれ内容や文体がかなり違う。それゆえ、全体としての脈絡はたどりにくい。それに加えて、たいていの日本人観客にとってタイトルロールのイフィゲーニアをはじめ断片的に登場するギリシア神話上の人物にはあまりなじみがあるとはいえずテキストの輪郭は見えにくい。
 蜂巣の演出では下手側の床下に作られた空洞のような場所から女性(岩井由紀子)の言葉(イフィゲーニアの独白かもと思うがはっきりとは分からない)漏れ聞こえる。さらにそれを舞台中央の男(串尾一輝)がこちらは拡声器を用いてリピートする。意図的にそうしているものかどうかは不明だが、セリフの意味はあまりにも聴き取りにくく感じる。そもそもセリフ自体も断片的だ。テキストは例えばこんな風だ。 「なぜここへきたの。弟あるいは姉。おまえは何かの報告書のように、こぎれいに取りつくろって新聞を読んでいる。アガメムノン、殺害さる。姉と言ったのか。そうたしかにそう言ったわ。姉、姉、姉、姉、姉。そうおれはエレクトラだ」。
 この部分はモノローグなのかダイアローグなのかも判然とせず、主体もエレクトラオレステスの姉妹を移ろって定まることがない。
 このように誰の話す言葉なのかが極めて分かりにくい難解なテクスト。それを一風変わった発話法で上演する。さらに中央の男の左右では男二人がもがいているようにしか見えないような身体所作を繰り広げているが、全体の印象は非常に散漫に感じざるを得ない。
 二重の隔壁を通して意味を汲み取ろうとしているようななんともいえないもどかしさを感じるのだ。
 戯曲のそれぞれの幕はそれぞれ様式とテキストの方向性が異なるが、こうした何ともいえないもどかしさは結局最後まで拭い去ることが難しい。
 このように全体としての表現の方向性がいまひとつ焦点をむすびにくいため、観客の視線は次第にともすればテキストの意味するものよりも個々のパフォーマーそれぞれの発声や身体所作のありかたを含む個性といった魅力の方に向かってしまう。
 そういう意味では日和下駄は語りの際の声が素晴らしく魅力的だった。それは意味を超えて迫ってくるようなところがあった。とはいえ、こうした魅力が作品に対してうまく貢献しているのかと考えるとそうでもない気もしてならない。こういう俳優はむしろSPACや地点のような「語りの演劇」での演技を見てみたいと思ってしまった。

作:フォルカー・ブラウン 翻訳:中島裕昭 演出:蜂巣もも(グループ・野原)


少しずつ陽射しが暖かく、柔らかくなり、穏やかな風が吹くようになりました。みなさま、お元気でいらっしゃいますでしょうか。
グループ・野原は昨年6月に公演実施を試み、止む無く、開催を延期した演目の上演を試みます。
傷を負って冷たく、動きにくくなった体を少しずつほぐしていくように、「本当の自由とは何なのか」そんな問いを作品に出来ればと思っています。
2021年度が始まる第一歩目、よければぜひご来場くださいませ。

『自由の国のイフィゲーニエ』

一、復讐のために母とその情夫を殺した姉弟両方の人格を備えた者の物語。その人物は使命を持って我が身を奮い立たせたかと思えば、手のひらを返して怖気づき、また甘い言葉をささやいて、男性の人格の破滅を誘う。

二、戦争と生け贄の儀式という人殺しの過去を二度も背負った女、イフィゲーニエ。彼女はそれが本当の使命だと思ってきた。来たるべき自由は彼女を解放する。そこで誓う次の使命は果たして本物の正義なのだろうか。

三、強制収容所(大量死)でもあり、スーパーマーケット(大量生産)でもある場所に、死んだ兄をショッピングカートに乗せたアンティゴネーがやってくる!

四、コンクリートで敷き固められた滑走路に、ある労働者が立っている。これは古代の風景だ。彼を妬ましく、挑発的に見つめる女は、彼がとっくの昔に手放したものである。それがいまでも私たちを苛み、次の希望を生み出すことを阻んでいる。これはいままさに始まろうとする世界飢餓の素材である。

グループ・野原
庭師ジル・クレマンが著書『動いている庭』で提唱する新しい環境観に感銘を受け、岩井由紀子(俳優)、串尾一輝(俳優)、蜂巣もも(演出家)、渡邊織音(美術家)で「グループ・野原」を立ち上げる。演劇/戯曲を庭と捉え、俳優の身体や言葉が強く生きる場としての舞台上の「政治」を思考する。

フォルカー・ブラウン
1939年生まれ。炭鉱労働などを経て大学進学、哲学を学ぶ。60年代から詩人として注目され、70年代より東ドイツを代表する劇作家となり、厳しく体制を批判し続けた。
本作は、ベルリンの壁崩壊〜東西ドイツ統一の間の1987~91年にかけて執筆された。

出演

岩井由紀子、串尾一輝(以上、グループ・野原/青年団)、田中孝史、日和下駄(円盤に乗る派)

スタッフ

演出:蜂巣もも(グループ・野原)
美術:渡邊織音(グループ・野原)
サウンドインスタレーション:佐々木すーじん
照明:松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
舞台監督:黒澤多生(青年団
宣伝美術:増永紋美
制作:飯塚なな子

芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:曽根千智(アゴラ企画)