下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

ミナモザ「Ten Commandments」@こまばアゴラ劇場

ミナモザ「Ten Commandments」@こまばアゴラ劇場

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作・演出:瀬戸山美咲
私と原子力、その近さと遠さについて

想像してみる。今、原子力の勉強をする彼らを。
想像してみる。かつて、原子力の研究をしていた彼らを。

2011年の福島第一原発事故以降、原子力の道を選んだ大学院生たち。
彼らは今、何を求め、何を求められているのでしょうか。
この作品では、彼らが受ける技術者倫理の授業を題材に、私たちと原子力の距離を考えます。
俳優は原子力学科の学生を演じ、さらに過去の科学者を演じ、遠くにあると思われたものを想像します。
私たちは、自分たちの手に未来を取り戻すために、この対話の演劇を始めます。


ミナモザ

瀬戸山美咲が劇作・演出をつとめるカンパニーとして2001年に設立。目の前で起きている事象を通して、人間と社会の関係を描く。近年の作品に、東日本大震災後の自分自身を描いたドキュメンタリー演劇『ホットパーティクル』、心の基準値をめぐる短編『指』、原発事故を描いたドイツの小説を舞台化した『みえない雲』など。2016年、『彼らの敵』で第23回読売演劇大賞優秀作品賞を受賞。
出演

占部房子 山森大輔文学座) 浅倉洋介 本折最強さとし 菊池佳南(青年団/うさぎストライプ) 石田迪子
スタッフ

舞台美術:原田愛 照明:上川真由美 音響:泉田雄太 衣装:高橋毅
ドラマターグ:中田顕史郎 演出助手:石塚貴恵 舞台監督:鳥養友美
日本語字幕監修:シアター・アクセシビリティ・ネットワーク(TA-net)
英語字幕協力:三井田明日香 宣伝イラスト:高城琢郎 宣伝美術:郡司龍彦
制作:小野塚央

原子力についての研究者を描いた演劇にはマキノノゾミの「東京原子核クラブ」があり、これは私がとても好きな作品だ。桃唄309の橋本健作演出の「貝殻を拾う子供」(2003年)も核物理学者らを主人公にした群像劇で、丁寧な芝居作りで科学の原罪という重い主題に正面から挑んだ秀逸な舞台、その年のベストアクトに選んだ。
 上記の劇場サイトに掲載されたあらすじを読んで、そういう種類のものを3・11の福島第一原子力発電所の事故以降のものとしてアップデートしたような作品かと予測して、観劇に出掛けた。ところが実際の作品は原発事故以降書けなくなってしまった女性劇作家(明らかに作者本人を連想させる人物)を中心にして、彼女のトラウマを描いたような作品となっていて、驚かされた。構想で最初に書いたようなものにしようとして作り始めたが、どうやらそうはできなくて、出来上がってみたらこんな風になっていたというようなことらしい。
 私は理科系出身の男性であり、彼女の感性とはあまりに距離感がありすぎるため、自分とはまったく関係のない「彼岸のもの」を見せられている感が強く、ある意味「理解できないものを見せられることの興味深さ」としては面白く感じたが、正直言って実感が湧かない部分が多い。
 なんとなく心情反核のような空気になっているが、論理的には破綻していると感じた。普段は社会的な問題を割りと感情的にだけはならないで扱うことも多い作者だけにやはり指摘しておかないといけないと思うのだが、最大の問題はいくら倫理の問題と言っても核兵器原発の問題を一緒にしてしまうのは乱暴すぎるのではないか。
 作者の略歴の説明に「東日本大震災後の自分自身を描いたドキュメンタリー演劇『ホットパーティクル』、心の基準値をめぐる短編『指』、原発事故を描いたドイツの小説を舞台化した『みえない雲』」などとあるから、おそらく原発のことはきまぐれで取り上げたわけではなくて、この作者のライフワーク的な重要テーマなのだろう。実際はそれぞれの作品がどういうものなのかについては分からないのだが、今回の作品はやはり思い入れが強すぎるためによく分からない作品になってしまっているように感じた。
もっとも最初の予見は最初のあらすじを読んでの私の勝手な思い込みでもあるし、作中の女性作家が言葉をしゃべらなくなっているのが、ひょっとしたらこの問題についての自分の思いが当時周囲の人には必ずしも伝わらなかったことへの苛立ちがあったのかもしれない。
  どちらかというと当時私は逆の立場で被災地である福島や福一原発周辺はもちろん事情が異なるが、東京やなかんずく関西では特別な場合を除けば放射能の被害と言うのは正直言ってとるにたりないのだということを論理的に説得しようとして、その時には腐っても理系である自分にとっては常識中の常識であることがいくら説明しても理解してもらえず、そのディスコミュニケーションに苛立ちまくっていた時期があった。
 時間が少したって不安を感じている人の不安はそうした論理的な説得では解消されないんだということを理解しはじめるにしたがって、ある種諦念のようなものが生まれてくるようになったのだが、それ以来人間は根源的に理解しあえないのだということがいろんなことの前提となっている。
 私も個人的な立場として原発再稼働には反対だが、その第一の理由は原発には原理上ある程度以上のリスクはあり、それはリスクを相対的に低めていくことで活用できないほどのものではないが、少なくとも現状の電力会社のようにこのリスクを見てみぬふりをするような人たちに任せておけないというのが大きい。東京電力ももちろんひどいが特にひどいのが関西電力。業績をよくしたいというだけの理由でどんなことがあっても原発を稼動させたいというだけの会社だというのは老朽原発に対するこの会社の態度を見ていると露骨に分かってくる。さらにいえ廃炉経費や核燃料の処理にかかる費用などを勘案すれば発電にかかる費用が安いというのも帳簿上のことだけである。
それゆえ、リスクの点でもコストの面でもこの発電方法に頼るのは非合理的であり、それが原発に賛成できない理由だ。
 一方で太陽光や風力などの電力は電力供給が不安定だなどとも主張されるが、これこそ技術的に解消できるリスクに過ぎず、例えばそのミッションの困難さを核燃料最終処理の技術的困難さと比較してみればどちらを取るべきかは明らかである。
 こうした問題は核兵器の問題とは比較にならない。こちらはそもそも実際に使われたら取り返しのつかないことは明確すぎるほど明らかだからだ。
ここまで書いてしまうと批判ばかりに取られてしまっても仕方がないところだが、この舞台の魅力はこれだけの欠陥があってさえ、まだそれを補ってあまりあるような魅力も感じるところなのだ。なかんずく、女流作家を演じた占部房子の女優としての力は大きいが、抑制された脚本にもただ反発するだけではすまない「何か」を感じる。