下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

スペースノットブランク「すべては原子で満満ちている」@こまばアゴラ劇場

スペースノットブランク「すべては原子で満満ちている」@こまばアゴラ劇場

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スペースノットブランク「すべては原子で満満ちている」より。(撮影:月館森)

演出:小野彩加、中澤陽

ドラマとカオスが交錯する。そこに表れるすべての事象。とすべてのすべてについて。

いくつかの舞台に表れるいくつかの事象を、作者たちの独自性と物語たちの虚構性を交え、モキュメンタリーとして描きます。人間と人間の表現を探究するスペースノットブランクが、自己と他者の存在を受容し、いくつかの舞台で作者たちと物語たちを展開することで、舞台によるコミュニケーションを行ないながら、すべての事象に ある ない 意味を表します。


スペースノットブランク

小野彩加と中澤陽が舞台芸術を制作する組織として2012年に設立。舞台芸術の既成概念に捉われず新しい表現思考や制作手法を取り入れながら舞台芸術の在り方と価値を探究している。環境や人との関わり合いと自然なコミュニケーションを基に作品は形成され、作品ごとに異なるアーティストとのコラボレーションを積極的に行なっている。2017年〈第8回せんがわ劇場演劇コンクール〉にてグランプリ受賞。2018年〈下北ウェーブ2018〉に選出、〈高松アーティスト・イン・レジデンス2018〉に招聘。

出演

荒木知佳、古賀友樹、近藤千紘、高嶋柚衣、瀧腰教寛、西井裕美
スタッフ

舞台監督|河井朗
舞台美術|古舘壮真
音響・照明|櫻内憧海
制作|河野遥
宣伝写真|ダンオゥケ・カールソン

芸術総監督|平田オリザ
技術協力|鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力|木元太郎(アゴラ企画)

 スペースノットブランクの作品はこれまで何回か見たことはあったのだが、単独の本公演は初めて。正直言って今回の作品はどのように受け取ったらいいのかが、よく分からなくて当惑させられた。
 始まってからしばらくはセリフはあまりなく、パフォーマーの身体所作も非常に緩やかなものだったため、太田省吾の沈黙劇のようなものだろうかと思いながら眺めていたが、ほどなくセリフが語られるようになると、そういうものではないというのが分かった。
 普通はことさら書かない「⚪⚪ではない」などということをこんな風にわざわざ書いたのは実はこの集団が行ったことはあまり他の集団の舞台では見たことがないものだったからだ。部分部分で何かを想起させることはあっても、全体を取ってみるとそこに独自性(オリジナリティー)があることは間違いなく思えた。ただ、見ていて気になったのはそれが表現として魅力的なものになっているという風にいえるのかどうかだ。セリフの形をとってはいるが、ここで発せられるセリフはイメージの断片でしかない。まとまった意味を形作るようなものにはどうしても思えなかったが、同時にそれは失敗してそうなったというよりは確信犯と思われた。
 その意味ではその舞台の感触自体はそれほど似てはいないが、意味の塊を持たず、言葉としての手触りを感じさせるところはオフィスマウンテンの山縣太一の言語テキストと若干類似したところがあるようにも思えた。
 とはいえ、それもあくまで若干の類似にとどまる。両者の間には決定的な差異も含まれている。ひとつは今回のスペースノットブランクのセリフには大別して、モノローグに聞こえるような長尺のセリフと掛け合いのような短いセリフの両方があることだ。
 このうちモノローグ的なセリフはひとりのパフォーマーが連続して語ることにはなるが、実は誰の言葉であるかはよく分からないようなものとなっている。
 会場で販売していた上演台本から少しだけ引用してみるとそれはこんな風になっている。
 「歩いている。ところからはじまっていて、どこ、こここここ、ばばば。外は暗い暗い夜道をずっと歩いているところがはじまった場所で。電話でいない人と喋る。1日のはじまりを電話ではじめて、5時間ぐらい喋って、暗くなって、床に転がって、天井の電気が1個切れて、誕生日だったことをすっかり忘れていた夜。焦りました朝。本を6冊ぐらい縦に並べて、電球が届いて、すっきりして、冷蔵庫開けて、卵が12個入ってて、オムレツでも作ろうかとなと卵を割って、フライパンに茶色く染まってしまって、理想の黄色はバリバリのパリパリしたオムレツがフライパン。」
 見てすぐ分かるのは一見モノローグのようでもここには「(私は)電話でいない人と喋る」と主語の私を補ったほうが分かりやすいモノローグ(1人称的な語り)と、「天井の電気が1個切れて」「電球が届いて」などの3人称的な「語り」が混然と交じり合ってしまっている。
 ここではある程度は具体的な情景も見えてくるような部分も含まれているが、「バリバリのパリパリしたオムレツがフライパン」のような発話した時の響きが重要な言葉も確かにある。この少し後には「人を見る人を見るのが嫌いで川が好きだな川が好きで川を見ると川に向かって話しかけるようにしてる川を見た川に願い事を話すと川は前から知っていました風に流れ続けてくれるから楽になる」などと畳み掛けるような「川」の連続が意味以上に次々と重なる「川」の響きの調子に重心がかかっている。
 一方ではダイアローグというよりはむしろ掛け合いのようなセリフもある。
 「来て。来て。来て。来て。来て。来て。来て。来て。」「息。」「来て。」「息。」「来て。」「息。」「来て。」」「息。」「来て。」「息。」「息していこう。誰かのための身体になるかもしれない。息していないと。大切にしよう。成長するために踏んでいこう。踏み出す。レゴブロック。ガチャガチャ。作る」。
 これも意味というよりは掛け合いのリズムと語感を大事にしていると思われる。
 本来はこうしたセリフ部分の構造的な差異が身体的な所作とシンクロしていくようなところがより明晰にあればもう少し見え方も違って見えるようだが、実際のパフォーマンスを見る限りはそれがそこまで意識されているように見えない。
 ただ、実は上演にはそれ以外に大きな魅力もある。それは出演者のなかにダンスでも演劇でも似たものをそれまで見たことがないような特異な身体の有り様を感じさせる人がいることだ。
 ところがこれが方法論的にどのように作品に寄与しているのかが今のところうまく受けとることができていない。少なくとも私には出来ていないと見えてしまう。方法論が個人のものにとどまっていて共通言語化していない弱さがあるためではないか。
 そうした不満もあるため、現時点で積極的な評価する気にはなかなかならないのだが、いずれにせよ気になる表現であるのは確かで、引き続き次の作品がどうなるかは注目していきたい集団だ。