下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

勅使川原三郎振付(KARAS)「音楽の捧げもの」@荻窪アパラタス

勅使川原三郎振付「音楽の捧げもの」@荻窪アパラタス

 

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 バッハの「音楽の捧げもの」によるダンス作品。最近の勅使川原三郎作品には音楽作品を基にした作品群と小説や戯曲など古典作品に材を取った作品と大別して2つの系列の作品がある。今回の新作「音楽の捧げもの」は典型的な前者の作品だが、短いパッセージが次々と並び、その音楽も緩急や使用楽器もチェンバロ、ストリングスなど次々と入れ替わっていくという構成に合わせて、男女のデュオというミニマルなパフォーマンスなのにも関わらず、曲が変わるごとに勅使川原のゆっくりとした動きのソロ、佐東利穂子のすばやく激しい動きのソロ、二人のミディアムテンポのデュオなどと曲想に合わせるかのようにダンスの構成が変化していく。

 作品を見ていて最初に感じたのは佐東利穂子のダンサーとしての素晴らしさである。彼女の動きが勅使川原を受け継いでいることは間違いないし、特にこの作品などは勅使川原の振付作品であるがゆえにそれを体現していること間違いないが、それでも佐東の方が上半身の動き、特に腕の動きがなめらかかつ柔らかく、身体の特性の違いにより二人の動きのニュアンスはかなり大きく異なり、それは佐東の魅力となっているのは確かだ。特にこの作品でも腕を動かしながら激しく旋回するような動きは勅使川原の動きを数段凌駕するように見える。

 ゆっくりとした微細な動きに込めるきめ細かなニュアンスではまだ勅使川原の一日の長があるが、ダンサーとしての動きの魅力についていえば佐東がいることは振付家、勅使川にとって大きな武器となっている。

 この日の演目では個々の動きに演技的な意味を込めるという意識はおそらく、希薄だが佐東の持つ大きな魅力は優れたダンスアクトレスであるということ。「白痴」での好演は記憶に新しいが次回作「オフェーリア」はまさにそうした魅力が発揮できそうな演目でいわゆる「オフェーリア狂乱の場」を佐東がどのように演じるのか。今回のダンスもよかったが全く違ったよさも見られそうで楽しみである。

 

 
J.S.バッハ ≪音楽の捧げもの≫ BWV1079 カール・リヒター Das Musikalische Opfer

円盤に乗る派かっこいいバージョン『おはようクラブ』@吉祥寺シアター

円盤に乗る派かっこいいバージョン『おはようクラブ』@吉祥寺シアター


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2020年1月11日(土)~1月13日(月・祝)

人間のかたちをして生きていくとき大事なのは、
いつでも円盤に乗れるようにしておくことだ。

AAF戯曲賞受賞・カゲヤマ気象台の率いるプロジェクト「円盤に乗る派」
演劇に留まらない活動を見せる彼らによる「かっこいいバージョン」、劇場公演です。
今回は気鋭の若手演出家、蜂巣ももを迎え、カゲヤマ気象台との共同演出で制作を行います。

ゆるやかに連なるイメージと身体による、唯一無二の世界観。ここから先、演劇は、言葉は、私たちはどこへ向かうのか。必見の最新作です!

 現時点における最善の消極的なユートピア、これならなんとか成立できるかもしれない良いコミュニティは、どんな形をしているだろうか。

 コミュニティを作るお膳立ては、この世のあらゆるところに存在している。参入するのはとても簡単だ。インフルエンサーを5人ばかりフォローすればもうじゅうぶんだろう。あとは蟻の巣のように広がっていく。ほんの少しの積極性さえ持っていれば、どこまでも奥に入っていくことができる。そうして奥に行くほど帰って来るのはむずかしくなり、身動きはできなくなる。

 誰もが客観性を保ったままそこにいることができる、と考えられるほど楽観的になることは難しい。実感を、感情を吐露するのは簡単だ。それが苛立ちや怒りならば、はるかにかなり簡単だ。悪い言葉は圧倒的な存在感で、竜巻のように立ち上る。その存在から目を背けるということはとても難しい。

 本当なら、楽しければ客観性などいらない。いつも楽しく、いい感じで踊っていたい。ゆらゆらと、何かに固執することなく、自らを客観視せず、あらゆるものと相対化せず、空気中の微生物のように存在していたい。なぜそれができないのだろう?

 きっと最低限必要なのは消極性だと思う。消極的であることによってユートピアが見いだせるような、そんなあり方ができたらよいのだと思う。その中でもさらに良いものが目指せたらいい。消極的に目指すというのは矛盾なのだけど。しかし矛盾は引き受けなくてはいけないだろう。そしてもしそういったユートピア的なコミュニティが存在できたとしても、それはすぐ崩壊してしまうだろう。

 崩壊してしまうのはさみしい、しかしその危うさがなければ、そもそもそのようなコミュニティは存在できない。信頼がおけない楽しいコミュニティ、それに「おはようクラブ」というふざけた名前をつけながら、最大限、できるだけ長い間、楽しめていたらよいと思うのだけど。

カゲヤマ気象台



【演出】カゲヤマ気象台*⇔蜂巣もも(グループ・野原/青年団演出部)
【脚本】カゲヤマ気象台*


【出演】日和下駄*
畠山峻(PEOPLE太)
上蓑佳代(モメラス)
横田僚平(オフィスマウンテン)

【舞台監督】河村竜也
【舞台美術】渡邊織音(グループ・野原)
【舞台美術アドバイザー】鈴木健介(青年団
【照明】伊藤泰行【音響】カゲヤマ気象台*
【記録】黒木洋平(亜人間都市)
【制作】冨田粥【制作補佐】林揚羽(しあわせ学級崩壊)
【デザイン】大田拓未

=円盤に乗る派プロジェクトチーム

主催:円盤に乗る派
提携:公益財団法人武蔵野文化事業団

 カゲヤマ気象台による演劇プロデュースユニットが「円盤に乗る派」である。現在の構成員はカゲヤマ気象台と俳優の日和下駄の二人。「おはようクラブ」は「外部から共同演出者を迎えてするもうひとつのレーベル」(カゲヤマ気象台)のような公演であり、今回は蜂巣ももを外部から共同演出に迎えた。
 共同演出とはいえ、二人の間には明確に役割分担があり、俳優の発話と演技と音楽についてはカゲヤマ気象台が担当。舞台中央に空いている巨大な穴(というか地下空間への通路)と舞台奥にある巨大なオブジェなどの空間の構成と舞台美術は美術家の渡邊織音(グループ・野原)と一緒に蜂巣ももが担当した。


蜂巣ももの演出ノート
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芸術と憲法を考える連続講座 第25回 「憲法と文化政策 」(平田オリザ)@上野・東京藝術大学

芸術と憲法を考える連続講座 第25回 「憲法文化政策 」(平田オリザ)@上野・東京藝術大学

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憲法25条に規定される「生存権」は、9条と並んで、制定当時、世界最先端の条項でした。この講座では、生存権的基本権と、国民が文化的に暮らす権利を出発点として、社会における芸術の役割や、「文化による社会包摂」という概念を、地方自治体の実例を交えながら考えていきたいと思います。

◇日時: 2020年1月10日(金)18 : 30 - 21 : 0 0 (開場18:00)

◇教室: 東京藝術大学 上野キャンパス 音楽学部 5-109

◇お話: 平田オリザさん(劇作家、演出家)

※入場無料、申込不要。藝大生と一般市民のための講座です。

※お問い合わせ : kenpou.geidai@gmail.com(川嶋)

◇主催: 自由と平和のための東京藝術大学有志の会/後援: 日本ペンクラブ

ももクロとの出会い(前史)「MuDAとももクロ」

ももクロとの出会い(前史)「MuDAとももクロ

2012年、この年のダンス界の発見のひとつがダンスカンパニー「MuDA」であった。そのことをその年の年間回顧に書いたのが以下の文章だが、実はこれには後日談がある。このMuDAの公演が「男祭り」であり、誰かそれを見た人の感想はないかとネット検索した結果、大量の書き込みで遭遇したのが「ももクロ『男祭り』」という謎のイベントについての書き込みだったからだ。「これはいったい何なんだ」という好奇心に駆られた私がネットで注文して手に入れたのがももクロ「男祭り」「女祭り」のDVDでこれを当時毎夜のように通っていたバー&ギャラリー「フィネガンズウェイク」の店内のスクリーンで見ることになったのが、ももクロとのファーストコンタクトだったのだ。
 運命を感じるのは以下の文章にその後、ももクロに感じることになる魅力と当時の舞台芸術の関係がもうすでに予言のように書かれていることだ。

MuDA 菌 ダイジェスト

Momoiro Clover Z: Momoclo Aki no Nidai Matsuri Otoko Matsuri 2011 Retrospective

演劇のようなダンスというわけではないが「We dance京都2012」とほぼ同時期に上演された若手ダンスカンパニーMuDA「男祭り」@京都アトリエ劇研も注目すべき公演だった。MuDAはヒップホップダンサーでe-Danceに参加していたQUICK、モノクロームサーカスの合田有紀らによるダンスユニットである。劇場での本格的な公演はこれが初めてでこちらは白い褌姿の裸体の男たちが激しく輪舞した。頭を上下に激しく振ってみたり、倒れたかと思うとすぐに立ち上がったり、その様は参加者がトランス状態になっている謎の宗教の儀式にも見えきわめて不可解なものであった。これまでに見たことがないもので、ゼロ年代を彩った身体表現サークル、コンタクトゴンゾ(contact Gonzo)に続きついにポストゼロ年代を代表するダンスが登場したと興奮した。というのは「男祭り」には「肉体の酷使による生の賞揚」という意味で先述した「再/生」と通底するような問題意識を感じたからだ。ポストゼロ年代と先に書いたのはそういう意味合いで、2000年代後半から2010年以降にかけての東京の若手劇団の舞台において、この「肉体の酷使による生の賞揚」という手法が目立つようになっている。東京デスロックがその典型ではあるが、同様の手法はマームとジプシーやままごとなどでも垣間見られる。
 さらに言えば岸田戯曲賞を受賞した矢内原美邦の作品でも「肉体の酷使」という手法は出てきているし、黒田育世のダンスなどは「酷使」そのものといってもいい。MuDA「男祭り」には明らかに最近のパフォーミングアーツにおけるそうした大きな流れと問題意識を共有する。
 SPACの宮城聰はク・ナウカ時代のインタビューで、舞台における祝祭的な空間の復活を論じて、生命のエッジを感じさせるような宗教的な場が失われてしまった現代社会において、それを示現できる数少ない場所が舞台で、だからこそ現代において舞台芸術を行う意味があるのだと強調した。九〇年代に平田が「演劇に祝祭はいらない」と主張しそれが現代演劇の主流となっていくにしたがい、宮城の主張はリアリティーを失ったかに見えたが、「祝祭性への回帰」という性向が「ポストゼロ年代演劇・ダンス」には確かにある。そして3・11を契機に生と死という根源的な問題と向かい合った作り手たちが「肉体の酷使による生の賞揚」という手法で、祝祭空間を見せる今こそ宮城の夢想した「祝祭としての演劇」が再び輝きはじめる時なのかもしれない。

 

青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』(2回目)@アトリエ春風舎

青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』(2回目)@アトリエ春風舎

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宮崎企画

作・演出:宮﨑玲奈

ある家に一人で暮らしている。毎日を淡々と、暮らしている。食べるものを決めて、着たい服を着て、育てている花が、たまに咲くことに、そういう、ささいさのひとつ、ひとつを考えることで、夫のことを、忘れようとしている。
友達と三人で焚き火をする。あの子と、友達と、三人で映画をみる。四人では、一度も会うことはなかったけれど、どこか、ちぐはぐに、似ていたような、そんな気もする。
この家の庭は、小さい頃のわたしが、かつて、過ごした庭だった。自分で、この街を選んで、ここにいる。毎日がやってくる、そのうまくいかなさのなかから、季節がめぐることのなかで、まずは、わたしから、はじめてみようと思う。

宮﨑玲奈

劇作家・演出家。ムニ主宰。1996年高知生まれ。明治大学文学部卒業。2017年カンパニーメンバーを持たない形で、演劇の団体「ムニ」を立ち上げ、主宰。ムニでは劇作・演出を行う。無隣館三期演出部を経て、青年団に所属。
出演

木崎友紀子* 立蔵葉子(梨茄子)* 石渡愛* 黒澤多生* 西風生子* 南風盛もえ* 藤家矢麻刀
(*)=青年団

スタッフ

空間設計:渡辺瑞帆*  
音響・照明:櫻内憧海(お布団)*
照明操作:新田みのり
舞台監督:黒澤多生*
宣伝美術:江原未来
制作:半澤裕彦* 
制作補佐:山下恵実(ひとごと。)*
*=青年団

総合プロデユーサー:平田オリザ
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

 ディティールと仮想空間
 2回目の観劇。次の作品が楽しみな作家であることを再確認。若手の作家の場合、方法論について試行錯誤の最中であることが多いのだが、この人の場合、若くして方法論をほぼ確立しつつあることがうかがわれた。初回の感想で幾分飛ばし気味に「アンファンテリブル」と評したが、通常は1本見ただけでは判断しかねるのだが、逸材ではないかと思う。
 青年団演出部の所属だが、佐々木敦を交えてのアフタートークで「平田オリザにはあまり直接的な影響を受けてはいない。むしろ、影響を受けたのは前田司郎、犬飼勝哉」などと語ったのだが、先にも書いたように明確な方法論上の差異はあるけれど、現代口語演劇をアップデートした方法論はまさに平田オリザを継ぐと言っていいと思う。
「つかの間の道」を見ていて2つの演劇作品を思い出した。ひとつは平田オリザの「東京ノート」、もうひとつは岡田利規の「三月の5日間」である。この2作品では提示の仕方には方法論的な違いがあるが、どちらも近景、遠景が並列して提示され、そのうち近景では「東京ノート」ではひさしぶりに再会した家族の様相、「三月の5日間」では渋谷のラブホテルでの若い男女のことが描写される。ところでそうした卑近なものを核に置きながらも、「東京ノート」では欧州で起きている戦争を巡ってのあれこれの会話、「三月の5日間」では湾岸戦争と戦争反対のデモをする若者たちが描かれて、家族や男女のミニマルな関係性は広く社会に開かれていることが示される。
 「つかの間の道」でも近景、遠景は同時進行で提示されるが、ここには近景、遠景のどちらもが個人の1対1の関係にかかわるもので、社会に対する広がりはない。作者に聞いてみたところ「いまのところそういう社会とか世界についての視線にはあまり関心がない」(宮崎玲奈)ということのようで、ここでは描写密度の濃淡はあっても個人と個人の関係に焦点を当てようとしているようだ。
 ただ、興味深いのは宮崎の方法論は平田、岡田の方法論同様に普遍的に世界を切り取ることができるようなものになっていて、今後作者の関心のありようの変化によっていろんな可能性を孕んだものとなりそうなことだ。
 誤解のないようにあらかじめ言及してしておくことにすると私は何も平田、岡田が戦争などの社会的関係性を射程にしているから素晴らしいなどというつもりは毛頭ない。ここでは宮崎の方法論の射程の潜在的な広がりを「可能性」として提示したまでである。事実、この作品では「消えて」しまった黒田という男が登場するが、彼のような他者的存在の描き方によってもまた新たな視座が開かれるのかもしれない。いずれにせよ今後が楽しみな作家であるのは間違いない。

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2019年ダンスベストアクト(年間回顧)

2019年ダンスベストアクト(年間回顧)

 2019年ダンスベストアクト*1*2*3 *4 *5 *6 *7 *8を掲載することにした。皆さんの今年のベストアクトはどうでしたか。今回もコメントなどを書いてもらえると嬉しい。

2019年ダンスベストアクト
1,きたまり(KIKIKIKIKIKI)「復活」@京都・THEATER E9
2,「RE/PLAY Dance Edit 東京公演」(多田淳之介演出)@吉祥寺シアター
3,lal banshees(横山彰乃)「本当は知らない ソロトリオ二部作」@こまばアゴラ劇場

4,関かおりPUNCTUMUN 「みどうつなみだ」「ひうぉむぐ」ムーブ町屋*9
5,Aokidダンス公演「地球自由!」@横浜STSPOT
6,佐藤利穂子 「アップデイトダンス『泉』」荻窪アパラタス
7,勅使川原三郎「ロストインダンス」荻窪アパラタス
8,オフィスマウンテン(山縣太一ソロ)「海底で履く靴には紐がない ダブバージョン」こまばアゴラ劇場
9,Co.Ruri Mito「MeMe」*10三鷹市芸術文化センター
10,「課題曲と自由曲」三鷹・SCOOL

関西のみで行われた舞台も多く、東京のダンスファンにとっては全貌をうかがい知ることが難しかったかもしれないが、2019年のダンス界はきたまり(KIKIKIKIKIKI)の年だと言っても過言ではなかったかもしれない。

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KIKIKIKIKIKI「復活」
 きたまりはマーラー交響曲の1曲まるごとの音楽を使用し、その全曲をダンス作品にするという壮大なプロジェクトを進めてきた。これまで2016〜17年に交響曲第1番「TITAN」、第7番「夜の歌」、第6番「悲劇的」を2017年夏に閉館したアトリエ劇研にて上演してきたが劇場閉鎖に伴い中断。今回、後継施設となるTHEATER E9のオープンに際して、新作を上演することになった。この作品の目玉は京都造形芸術大学時代のきたまりの指導教官でもあった山田せつ子を客演に招き、冒頭でたっぷり一楽章分のソロダンス(きたまり振付・演出)を踊らせたことであった。全編の首都圏での上演が待たれるが、せめて山田のソロ部分だけでも東京での上演が望まれる。
 きたまりの活動が他のダンス作家と大きく違っているのはダンスの世界にとどまらず、これまでにつちかってきた人脈を生かし、演劇系の作家との共同制作で成果を上げている。19年はその中の2つのプロジェクトが集大成といえる公演を迎えた。ひとつが演劇ベストアクトに選んだ木ノ下歌舞伎「娘道成寺」で、これは木ノ下裕一がプロデュースし、繰り返し上演されてきたものだ。
 もうひとつが多田淳之介演出による「RE/PLAY Dance Edit」でこちらではきたまりはプロデューサーとダンサーを務めているが、これまで京都、横浜など日本国内だけでなくアジア数か国での公演をして高い評価を受けてきており、今回の東京公演はアジアの各国での公演で参加したダンサーが出演する集大成的なバージョンといえる。
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RE/PLAY Dance Edit
 lal banshees(ら ばんしーず)は東京ELECTROCK STAIRSのメンバーとしても活動している横山彰乃が主宰しているダンスカンパニー。横山は旗揚げ作品だった 『ペッピライカの雪がすみ』*11トヨタコレオグラフィーアワードのファイナリストにノミネートされるなど振付家としても高い評価を受けている。私自身も昨年上演された「ムーンライトプール」*12を2018年ダンスベストアクト2位*13に選んだ。
 黒い壁に貼り付けられた透明なペットボトルが照明を乱反射してみせる水底感、周到に計算された緻密な照明プラン、練られて選択された音楽、可愛らしさのなかにどこか不安感も醸し出させる衣装。こうした諸要素がダンサーの生み出す動き(ダンス)と高度なレベルで組み合わさることで、こまばアゴラ劇場という劇場の持つ空気感をうまく利用して、横山ならではの個性的な世界観を提示している。
 これまでの公演でも書いた「物語性は特にないが、単に音楽に合わせて群舞で踊るというようなありがちなものではなくて暗い森の中で何かよく分からない生き物たちが蠢いている」という特徴は今回もそのまま受け継がれているが、今回は2本立ての後半パートが横山自身が踊るソロ作品として設定されていたことで、ダンスの動きをより集中して堪能できるようになっていた。
ダンスは集団として振付家の開発した特定のムーブメントや身体メソッドを共有することが重要であるが、そうした意味での成果を見せたのが関かおり三東瑠璃だっただろう。ともに個人個人のダンサーの動きではなく、いわばオブジェ的に集団のかたまりとしての動きを見せていくという意味では共通点があるのだが、三東瑠璃の作品が「ダンサーそれぞれの動きが組み合わせられることで、全体としてのオブジェ的な造形がグネグネと動き回る体を見せていく」というもので、ほとんどダンサー個々の動きを見分けることができず、群れ的な集団の動きが強調されるのに対し、関かおりの作品は群舞としての全体的なイメージ以上に個々のダンサーそれぞれの輪郭がはっきりしていて、個性の違いが浮き彫りになっていた。とはいえ、この二人はその立ち位置からしてライバル的な存在には違いないだろう。
 若手ではAokidの活躍も目立った。全体としては作品よりもオブザーバーメンバー的に参加していた「これは演劇ではない」の企画イベントなどの活動自体が作品であるというようなありかたが刺激的ではあるのだが、劇場作品として制作した「地球自由!」はとてもいい作品であった。
 ダンサーとしては日本屈指の存在である佐藤利穂子(KARAS)の振付家デビュー作品「アップデイトダンス『泉』」にも注目したい。佐藤はこの作品発表直後にいきなり海外での作品制作も行っており、今後は(特に海外では)日本を代表する振付家のひとりとして扱われるかもしれない。振付的にも師匠の勅使川原三郎はほとんど入れないようなグラウンドポジションでのダンスもはいっており、独自性も感じられた上々のデビュー作品であった。
 勅使川原三郎も相変わらず年齢を感じさせない活動ぶりで、中でも「ロストインダンス」はよかった。

青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』@アトリエ春風舎

青年団若手自主企画vol.81 宮﨑企画『つかの間の道』@アトリエ春風舎

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宮崎企画

作・演出:宮﨑玲奈

ある家に一人で暮らしている。毎日を淡々と、暮らしている。食べるものを決めて、着たい服を着て、育てている花が、たまに咲くことに、そういう、ささいさのひとつ、ひとつを考えることで、夫のことを、忘れようとしている。
友達と三人で焚き火をする。あの子と、友達と、三人で映画をみる。四人では、一度も会うことはなかったけれど、どこか、ちぐはぐに、似ていたような、そんな気もする。
この家の庭は、小さい頃のわたしが、かつて、過ごした庭だった。自分で、この街を選んで、ここにいる。毎日がやってくる、そのうまくいかなさのなかから、季節がめぐることのなかで、まずは、わたしから、はじめてみようと思う。

宮﨑玲奈

劇作家・演出家。ムニ主宰。1996年高知生まれ。明治大学文学部卒業。2017年カンパニーメンバーを持たない形で、演劇の団体「ムニ」を立ち上げ、主宰。ムニでは劇作・演出を行う。無隣館三期演出部を経て、青年団に所属。
出演

木崎友紀子* 立蔵葉子(梨茄子)* 石渡愛* 黒澤多生* 西風生子* 南風盛もえ* 藤家矢麻刀

青年団

スタッフ

空間設計:渡辺瑞帆*  
音響・照明:櫻内憧海(お布団)*
照明操作:新田みのり
舞台監督:黒澤多生*
宣伝美術:江原未来
制作:半澤裕彦* 
制作補佐:山下恵実(ひとごと。)*
*=青年団

総合プロデユーサー:平田オリザ
技術協力:大池容子(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)


 青年団演出部にまたアンファンテリブル(恐るべき子供たち)が現れた。宮崎玲奈は明治大学を卒業したばかりの23歳。まだ若いが人物を描写していくその演出のタッチは極めて繊細で、巧みさに驚かされた。
 同棲中の若いカップル間に時折流れる微妙な隙間風を細密画のように描写した場面がなかなか秀逸。実は二人には両者と友人だった失踪した男がいて、その男がいなくなってから付き合いはじめるのだが、今でも彼の存在(というか不在)は二人の間に影を落とし続けている。だが、そうした違和感や不一致を二人は見て見ぬふりをしていることで現在の関係性をなんとか維持しようとしている。こうした関係の小さな揺らぎを宮崎はとても繊細に見せていく。そこには学生演劇上がりの作家によくあるような稚拙さはなくて、熟練の作家のような巧みさが感じられた。
 さらに、それを若い二人の俳優(石渡愛、黒澤多生)がよく演じている。特に石渡はセリフにはないようなちょっとした視線の配り方や表情の変化で二人の間に生じる微妙な空気感を演じてみせるのだが、こういうことができる俳優を抱えていて、若い作家がそれを起用することができるのも青年団(演出部)の強みであろう。
 会話自体は現代口語演劇であり、平田オリザの系譜にあると考えてもいいが、対象へのフォーカスの当て方はまったく違う。
 「東京ノート」で平田自身が自らの方法論をフェルメールになぞらえて、カメラオブスキュラの例えを出したように平田のそれは単一のレンズが切り取るフレームのような描写なのだ。
 対して、宮崎の視点の切り取り方は複数のカメラを組み合わせたようにより多視点的である。しかも実際に提示されるのは現実のうちの一部だけであり、「描く部分/描かない(で想像にゆだねる)部分」を作り、さらにそれぞれ時間j軸や空間(場所)が異なる場面をまるでレイヤー(層)を重ね合わせるように同時に提示していく。
 この作品の主題は「存在/不在」ではないかと思う。そして、その主題は「表現すること/表現しないこと」という宮崎の演劇の方法論にも重なり合っているように思えた。
 実はこの構造は「東京ノート」で平田オリザが構築した構造と相似形にあるのではないかと「つかの間の道」という作品を見ているうちに思えてきた。つまり、宮崎が世界を切り取る切り取り方と平田のそれとは全然違うのだが、作品の内容が方法論(作品の形式)と呼応しているという一点においては宮崎は平田の系譜を継いでいるといえるかもしれない。
 
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新春浅草歌舞伎1月公演@浅草公会堂

新春浅草歌舞伎1月公演@浅草公会堂

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第一部

花の蘭平

蘭平  中村 橋之助

寺子屋

松王丸   尾上 松也

武部源蔵  中村 隼人

戸浪    中村 米吉

春藤玄蕃  中村 歌昇

千代    坂東 新悟

茶屋

熊鷹太郎   坂東 巳之助

田舎者麻胡六 中村 歌昇

目代某    中村 錦之助

 

第二部

絵本太功記

武智光秀  中村  歌昇

武智十次郎 中村  隼人

 

佐藤正清  中村  橋之助

操     坂東  新悟

真柴久吉  中村 錦之助

仮名手本忠臣蔵

大星由良之助   尾上 松也

お軽                中村 米吉

大星力弥         中村 橋之助

富森助右衛門   中村 隼人

赤垣源蔵         中村 歌昇

寺岡平右衛門   坂東 巳之助

 仮名手本忠臣蔵では松也の大星由良助がよかった。ただ、教えを受けたり、研究したのではないかと思うのだが、先月に京都南座の顔見世で片岡仁左衛門の大星由良助を見たばかりだったというのもあって、ところどころ生き写しのように似て見えた。歌舞伎の場合はこういう場合はどのように評価したらいいのかが難しい。そういうことを考えにいれずに判断すればうまく演じていたので「いい」といえるのかもしれないのだが。

一方、この日目立っていたのはお軽を演じた中村米吉だろう。まず何といっても容姿に恵まれている。妙な色気があるのも魅力だ。おまけの挨拶でこの新春浅草歌舞伎について片岡孝太郎の名前を出していたから、ひょっとしたら孝太郎の教えを受けたのかとも思った*1のだが、こちらの方は全然似ていない。というか、過去に見たどんなお軽にも似てはいなくて、お軽の演技としてこれが正解なのかどうかはまったく不明なのだがコケティッシュといっていいのか独特な魅力があるのだ。実はそれは絵本太功記の初菊においてより一層発揮されていたが、こちらはどうもやりすぎじゃないかと思わせるほどなのだった。

 

*1:筋書きでは雀右衛門に丁寧に濃密に稽古して貰ったと語っていたようで、習ったのはそちらの方だったようだ。冷静になって考えれば孝太郎では若すぎるか。

五反田団『新年工場見学会2020』@アトリエヘリコプター

五反田団『新年工場見学会2020』@アトリエヘリコプター

2020年1月2日(木)~5日(日) 全5回

<出演>
五反田団周りの人々
ハイバイ周りの人々
獅子舞の人々
ザ・ぷー ※1/3~5のみ出演

 五反田団が毎年企画している新年特別公演。五反田団とハイバイによる演劇と獅子舞とザ・ぷーによる演奏。通常の演劇の本公演と比べるとどちらもくだらないともいえるが、新年の出し物らしく、気楽に楽しめる内容でもあった。

(J)POP2020@三鷹SCOOL

(J)POP2020@三鷹SCOOL

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出演

imdkm、柴崎祐二、伏見瞬、矢野利裕

日程

1月4日(土)14:00スタート
※21:00終了予定

料金

予約2,500円 当日3,000円


遂に始まったニーゼロ(2020)年代、Jポップ、すなわち(日本の)ポップミュージックは、どこに向かうのでしょうか?
(日本の)と丸括弧でくくったのは他でもありません。多くの人が気づいているように、インターネット(SNS、動画サイト、サブスクリプション等々)は実質的に時間と空間の壁、国境の壁、言語の壁などなどを崩壊させ、今も崩壊させ続けています(もちろんそこには良い面と良くない面があるのですが)。
現在、Jポップと呼ばれる事象について語ることは、そのまま「J」以外のポップについて考えることに直結します。「J」の特殊性を論じながら、同時に「J」をより広い文脈の中に置くこと。そのことによって、「J」を相対化するとともに「J」の外部をも相対化すること……。
いろいろあった/何もなかった「テン年代」が終わり、新しいディケイドが始まった今、(J)ポップの過去十年を総括し、向こう十年を予見するシンポジウムを開催します。
四名の批評家のプレゼンテーションののち、パネルディスカッションを行ないます。
長時間のイベントになりますが、音楽に関心のある方、ポップカルチャーに関心のある方は必見です。

佐々木敦

<タイムテーブル>
13:30 開場
14:00 開会宣言(佐々木敦
_伏見瞬「J(POP)裏街道 ー10年代のバンドミュージックとスピッツ的なるものー」
 スピッツandymori宇多田ヒカル ギター弾き語り 両義的
 ROTH BART BARON

ROTH BART BARON - けもののなまえ - (Official Music Video)

_矢野利裕「「J」を更新せよ!(まずは楽勝にいわゆる「悪い場所」を乗り越えたい)」

シティポップの再評価
kero kero BONITO

_imdkm「「J」はメロディとどう付き合うか?」
aikoブルーノート
内なる「J」
メロディ過剰
_柴崎祐二「J-POPにおける「インディー的なるもの」の変遷とこれから」
インディーレーベルの歴史

18:30 パネルディスカッション(司会:佐々木敦
21:00 終了(予定)
(途中休憩あり/出入り自由)

伏見瞬    10年代 andymori
   20年代 踊ってばかりの国
矢野利裕   10年代 kero kero Bonito
       20年代 倉内太(長谷川白紙)
imdkm 10年代 三浦大知
       20年代 Moment Joon
柴崎祐二   10年代 cero
   20年代 waiwai music resort

 佐々木敦氏の企画により4人の若手評論家が2010年代のポピュラー音楽の総括と20年代の見通しを語った。同種の企画はあったとしてもこれだけ長時間にわたってこの問題について対話を交わすということはあまりない機会なのではないか。用意した客席(30席前後)もほぼ埋まっており、同じ会場を使って演劇についてのトーク&レクチャー企画を主催している身としては自らの無力さを感じることになった。
 ポピュラー音楽については造詣が深いわけではないので、初耳のことも多く、流れを知ったりするのには大いに役にたったのだが、門外漢ゆえか不思議なことも多かった。最大の疑問符は星野源をどのように評価するのかについては途中の段階でも取り上げられることもあったし、最後の総括部分ではかなり長い時間を取って話がなされたのに、今回の企画では誰一人として、米津玄師について触れる人がいなかったことだ。終了後、佐々木敦自身にこの疑問をぶつけてみると「そういえばそうだね。なんでだろうね」などと軽くかわされたが、これはひょっとしたら米津玄師がもともとはボカロP出身であるということと無関係とはいえないのではないか。
 ボカロはヒットチャートにも入らないしここで対象となったJ-POPならびに(J)POPの対象にはならないと考えたからということはあるかもしれないけれど、少なくとも2010年代の大衆音楽を考えた時に絶対無視することはできないと思うのだが、小説の批評家がライトノベルやアニメや漫画を視野に入れないのと同じような意図的な排除があるのではないかと思った。

Kero Kero Bonito - Flamingo

リズムから考えるJ-POP史

リズムから考えるJ-POP史

  • 作者:imdkm
  • 出版社/メーカー: 株式会社blueprint
  • 発売日: 2019/10/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)