下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ルース・レンデル「もはや死は存在しない」(角川文庫)

ルース・レンデル「もはや死は存在しない」@角川文庫

「もはや死は存在しない」
“聖ルカの小さな夏”と呼ばれる小春日和の一日が終ろうとする頃、少年行方不明の報がキングズマーカム署に届いた。最近ロンドンから移ってきた母子家庭の10歳になる少年である。捜索隊が組織されたが、見つからないまま、その日は暮れた。ウェクスフォードもバーデン刑事も、8ヵ月前から行方不明のままの、もう一人の少女のことを思い出した。はたして二つの事件は関連があるのか?やがて少年のものらしい切りとった金髪の束が送られてきたが…。

 「もはや死は存在しない」は連続して少女少年が行方不明になるところから物語が始まる。
「死のチェスボード」も若い女性の失踪からはじまり、失踪するが死体は見つからないまま捜査が進行していくという筋立てはいくつかの作品をまとめて読んだところ、ルース・レンデルが得意とする筋立てのようだ。この作品も失踪事件から始まるが、事件の様相が見えてこないというレンデル流ホワットダニットである。
 とはいえ、「もはや死は存在しない」は少年の母親であるジェンマ・ロレンスと少女の両親であるアイヴァー・スワン、ロザリンド・スワンの2組の被害者の親族の物語が興味の中心となっていく。
 ミステリに恋愛を絡めることのぜひはクリスティーの場合にも取り沙汰されたが、レンデルの特色はプロットのメインの部分にそれがかかわってくることだ。「もはや死は存在しない」では事件の真相の解明というミステリ本来の謎解きの興味に拮抗するような重みで、ウェクスフォードの部下のシリーズレギュラーであるバーデン警部と失踪少年の母親、ジェンマとの交流が捜査陣としての規範を逸脱するほどに深まっていく様相が描かれ、それが物語の中核に置かれている。
 バーデン警部はそれまでその性格を仕事第一の堅物とのみ描かれてきたきらいがあったが、愛妻ジーンを若くして病気で失ってからはその喪失に耐えかねるような描写もあり、家庭的には妻の妹グレースが同居して子供たちの世話や家事一般を手掛けてきたが、ジーンの後を埋めてバーデンと一緒になりたいという思いが強く感じられるようになって、それを忌諱するバーデンは一層家に寄り付かなくなっている。
 そこに息子が失踪したジェンマと捜査上で出会い、その関係にバーデンは後ろめたいものを感じながらも次第にその魅力にのめりこんでいく。
 こういうところの心理描写はレンデルはうまくてそれだけでも読ませるものがある。もう一組のスワン夫妻の人物造形もなかなか興味深く、やはり読ませるところがあり、こういうところがレンドルの魅力であるのは間違いない。
 だが、この作品はミステリ的な仕掛けそのものは他のレンデル作品と比較すると弱いのではないかとも感じた。捜査も淡々と進みすぎて、その延長線上でついに犯人に到達するのだが、ウェクスフォード警部の推理にはモースのそれのようなひねりはあまりなく、読んだ印象では
バーデン警部とジェンマの関係の方が主筋で、事件が背景としての脇筋のように感じてしまうのだ。 
simokitazawa.hatenablog.com

(1977)

2年前に失踪して以来、行方の知れなかった女子高生バレリーから、両親に手紙が届いた。元気だから心配しないで、とだけ書かれた素っ気ないものだった。生きているのなら、なぜ今まで連絡してこなかったのか。失踪の原因はなんだったのか。そして、今はどこでどうしているのか。だが、捜査を引き継いだモース主任警部は、ある直感を抱いていた。「バレリーは死んでいる」…幾重にも張りめぐらされた論理の罠をかいくぐり、試行錯誤のすえにモースが到達した結論とは?アクロバティックな推理が未曾有の興奮を巻き起こす現代本格の最高峰。

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