平成の舞台芸術回想録第二部(9)ヨーロッパ企画「サマータイムマシン・ブルース」
「サマータイムマシン・ブルース」(2001年初演)は京都に本拠を置く劇団「ヨーロッパ企画」の代表作である。タイムトラベルを題材に、大学の「SF研究会」の学生たちが壊れる前のクーラーのリモコンを取りにタイムマシンで「昨日」へと戻り、タイムパラドックスを回避するために次々と騒動を巻き起こすことを軽妙に描いた青春SFコメディ。本広克行監督が瑛太主演、上野樹里ヒロインで2005年に映画化、同年に公開された。
当初、この劇団は三谷幸喜に代表されるようなシチュエーションコメディの劇団として紹介されてきたのだが、笑いを重視した作風に共通する要素を感じながらも、どうも釈然としないでいた。
実はその戸惑いの正体が分かってきたのは2010年以降ポストゼロ年代の若手劇団が登場して、彼らがそれまで伝統的に演劇作家が拠り所にしていたのとはまったく異なる作り方で作品を作っているのではないかと気が付いたことで、演劇雑誌「悲劇喜劇」2007年8月号に「ゲーム感覚で世界を構築 シベリア少女鉄道とヨーロッパ企画 」*1と題したヨーロッパ企画とシベリア少女鉄道の論考を書いたのだが、当時は現代演劇においてはアウトサイダーと見えた彼らの演劇が実はその後2010年代に相次ぎ登場した若手作家たちの先駆的な要素があったのではないかと思えてきたからだ。
ヨーロッパ企画 第13回公演 『サマータイムマシン・ブルース2003』 DVD CM
その抜粋は以下のようなものである。
(前略)ヨーロッパ企画の上田誠も興味の中心が物語より自らが構築した構造の提示にあるというという点で土屋と近い感性を持つ。それがもっとも顕著に顕れているのが「Windows5000」(2005年)である。ヨーロッパ企画が「シチュエーションコメディを得意とする劇団」などと以前から言われてきたのに妙な違和感を感じていたが、全然違うのがこの作品ではっきりした。近未来。閉じられた空間の覗き見ができるソフトウエア「Windows5000」を駆使して、奇妙な集合住宅を覗き見する2人の男を描いている。その集合住宅の間取りがまた変なのだが、それを舞台上に実体としてビジュアル化させた舞台美術がまたまたユニークであった。
いったいどういう発想からこんな変なことを思いついたのか。舞台の終わった後、上田に確かめたところ、「パソコンOSのWindowsをはじめ、パソコン上で広がるウインドウを面白いと以前から考えていて、それを実際の住居の窓と考え合わせて、パソコンをクリックするとそこから窓の中が覗き込めるソフトのようなものがあったら面白いと考えたのが出発点だった」らしい。舞台上で展開される「Windows5000」という覗き見ソフトの実際のビジュアルはおそらく、Google earthから来たのではないかと想像されるが、「ロードランナーズ・ハイ」でのファミコンゲームといい芝居とはあまり関係ない要素を見事に舞台に組み込んで、それを具現化してしまうところにこの集団の既存の演劇とまったく違う発想がある。
従来の演劇がどういう内容を伝えるかに作者の関心が向いていることが多いのに対し、上田の関心は舞台美術や映像などの仕掛けも含めそれをどういう形式で伝えるかに向いている。そこから「Windows5000」やある研究所で起きた事件を描くために視点がその周囲を周回していき同時多発に起こっていた出来事をコマ分割のように見せる「囲むフォーメーション」といった異色の作品も生まれた。シチュエーションコメディの代表とされた「サマータイムマシン・ブルース」にしても上田の関心は物語よりは時間旅行にともなうリモコンの複雑怪奇な動きを脳内で構築するパズル性にあるように思われる。
ここまで考えてきた時にふと思いついたことがある。欧米のリアリズム演劇に起源を持つ現代演劇においてはアウトサイダーと見える彼らの発想だが、日本においてこうした発想は実は珍しくないのではないか。鶴屋南北らケレンを得意とした歌舞伎の座付き作者は似たような発想で劇作したんじゃないだろうか。舞台のための仕掛けづくりも彼らが拘りもっとも得意としたところでもあった。その意味ではこの二人は異端に見えて意外と日本演劇の伝統には忠実なのかもしれない。
この回想録でもままごと「わが星」の回で取り上げたのだがポストゼロ年代演劇の特徴として次の3つが挙げられる。
ポストゼロ年代演劇の特徴
1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる
2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する
3)感動させることを厭わない
これはこの連載でも言及しているままごと、東京デスロック、木ノ下歌舞伎、ロロといった集団の作劇の特徴から抽出したものだ。ヨーロッパ企画の場合、これがそのまま当てはまるということではないが、特に注目したいのは2)の「作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する」である。
私はこうした作風を「ゲーム的リアリズム」と呼んでいる。実はこれはその言葉のもともとの意味とは少し違う意味で使っている。というのは東浩紀がこの言葉を使った際にはそのロールモデルとしてRPGの美少女ゲームのようなものが想定されているのだが、ここではそれをもう少し幅広く、ゲーム全般に拡張しているからだ。
「サマータイムマシン・ブルース」には物語がないわけではないが、この世界を規定しているのはドラえもんの世界にあるようなタイムマシンが本当に存在したらという「もし~ならば」である。とはいえ、これはそのままSFというジャンルそのものでもあるが、ここでは1、タイムマシンがある、2、それを使うとタイムパラドックが起き、現実改変が起こってしまうのでそれを防がなくてはならない、というミニマルな2つのルール(規則)のみをもとに物語が複雑怪奇な展開を見せていくのだ。
simokitazawa.hatenablog.com