下北沢通信

中西理の下北沢通信

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NODA・MAP(野田地図)第24回公演『フェイクスピア』(2回目)@東京芸術劇場=ネタバレあり

NODA・MAP(野田地図)第24回公演『フェイクスピア』(2回目)@東京芸術劇場

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長い旅路の果てにたどり着いたのは私にとっては「なぜこれ選んだのだろう」という意味では相当に意外な出来事であった。その出来事を集団演技のアンサンブルで演じきった最後の数十分間はいかにも野田秀樹らしい場面といえるし、感動的でもあった。しかし、最後の最後まで私はこれをなぜ今芝居にしたのかという疑問が脳裏から消えることはなかった。そこで演じられた出来事がそれ自体としてではなく、現在進行形の出来事のメタファー(隠喩)として演じられたのかもしれないとも考えたがその解釈もどうもしっくりとはこないのだった。むしろ、現実に起こった出来事をすっかりそれが起きた時のままに舞台上で再現してみせる。それがフェイクつまり演劇の虚構であり、それこそがシェイクスピアから延々と繋がってきた演劇の存在理由だというのが、この作品で野田が問いかけたいことなのだろうと思わせたのである。

前回(1回目)の観劇の後で私は感想をこんな風にぼかして書いた。ネタバレにあまり拘泥しない私ではあるが、さすがにこの作品は「出来事」が何かという謎が最初は伏せられ、劇の進行を通じて徐々に明らかになるという構造となっている。作者が舞台の前半で意図的にぼかしているのは明らかで、それをわざわざ名指すことにどれだけの意味があるだろうかとその時点では判断したからだ。
以下ネタバレ




















ただ現時点(2回目の観劇)では戯曲を収録した雑誌も発売され*1、複数の新聞紙面にもそれを明らかにした劇評が掲載されている。そのことを鑑みれば、「出来事」が日本航空ジャンボ機墜落事故であるということを明らかにすることにそれほど大きな問題はないだろう。
この事故については墜落時のほぼ一部始終についてのボイスレコーダー(音声記録)が残っている。そこでの迫真の言葉の数々を実際に私たちも知ることができる*2野田秀樹は俳優の演技によるその再現により、そこでは語られてない機長らの思いに虚構(フェイク)としてそこにおもいを馳せていこうと試みた。
 この作品で野田秀樹は劇作家の神と彼が考えるシェイクスピアの創作した言葉(セリフ)を媒介にして、航空機事故という極限の状況で戦った人間が実際に発したいわば「真実の言葉」(ノンフィクション)を劇の言葉(フィクション)と対比させてみせた。
 もうひとつの重要なキーワードは飛行士でもありやはり飛行機事故で亡くなったサン・テュグジュベリが「星の王子さま」で書いた「大切なものは目には見えない」という言葉である。
 昨今の世界ではフェイクニュースのように「真実」はすべて「フェイク」(虚偽)へと変換されてしまう。事実が事実であるということの大切さも何の価値も持たないように貶められる。コロナ禍での野田の発言も意図的にゆがめられ、ひとり歩きし、まともな形では受け手には伝わらなかった。そうした悔しさがこの作品の根底にあるのではないか。
 「フェイクスピア」において「真実の言葉」は死者の言葉でもある。死者の言葉を現前化するイタコは劇作家のメタファー(隠喩)なのだろう。劇中で白石加代子が演じるイタコ見習いは野田秀樹が演じるシェイクスピアと何度も入れ替わる。この作品は劇作家についての物語でもある。劇作とは小説などとは違い「書かれた言葉」を「目には見えない音」に変換してみせる作業で、サン・テュグジュベリが「星の王子さま」で書いた「大切なものは目には見えない」の意味合いを野田は「大切なもの」(=真実)を「目に見えない」(=声)として表すのが演劇であると示してみせたわけだ。
 重層化された言葉が紡ぎだす言の葉の世界が野田秀樹の世界なのだとすれば「フェイクスピア」という作品が面白いのは幾重にも張り巡らされたその言葉の中核にあるのがノンフィクション(事実)だということだ。
 日本航空ジャンボ機墜落事故を野田が劇の素材に選んだのはこの事件の音声記録が最初に明らかになった時、「どーんといこうや」とか「これはだめかも分からんね」などの機長の音声記録の一部が切り取られて報道されたことで、機長の責任論が引き起こされ、遺族である機長の家族も攻撃の的にされるということが起きたからではないか。
 コロナによる公演自粛が相次ぐ中でNODAMAP公式サイトに3月1日付で「劇場閉鎖は演劇の死を意味しかねない」と一連の公演自粛に対する見直しを要望した意見を書いた。演劇公演は観客がいて初めて成立する芸術だから、劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきだ、と。これに対し「演劇だけを特別視している」との意見がネット上で出回り、「炎上」という見出しさえ付けられることになり、平田オリザらの発言とともに世間からの演劇への攻撃が強まったのだ。
 劇作家は直接自ら意見を表明するのではなく、むしろ「フェイク」(虚構)を駆使することでこそ逆説的に「真実」に迫ることができる。この作品で提示した主題はそこにあり、それこそが劇作家としての野田の矜持なのだろうと考えさせられた。 simokitazawa.hatenablog.com

*1:

*2:報道機関によりリークされた音声記録はネット上にも残り私たちも聴くことができるが、元データは非公開であり、遺族の公開請求にもかかわらず35年をへた現在も正式に公開はされていない。