下北沢通信

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション@横浜KAAT

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション@横浜KAAT

作品情報

「今はむかし、2003年3月の、イラク戦争が開戦した頃の東京を舞台にした芝居です。このひとむかし前の戯曲を新しい仕方で、若い(かつ力強い)七人の役者によって上演します。テキストも案外と大幅に書き換えて2017年12月の日本で『三月の5日間』が上演されることは何を引き起こすでしょう?
岡田利規


【作・演出】岡田利規

【出演】朝倉千恵子、石倉来輝、板橋優里、渋谷采郁、中間アヤカ、米川幸リオン、渡邊まな実

【舞台美術】トラフ建築設計事務所

チェルフィッチュ「三月の5日間」の新キャストによる再演。今年は東京デスロックの「再生」「三人いる」が再演されたり、2000年代(ゼロ年代)を代表し、その後のポストゼロ年代の演劇への流れに向けての先陣を切った作品の再演が続いた。
 その中でもこの「三月の5日間」の初演*1はそのスタイルの斬新さにおいて衝撃的なものであり、平田オリザの「東京ノート」に代表されるような「関係性の演劇」中心の日本現代演劇の状況をこれ1作で、一変させるほどのインパクト(衝撃)があった。 
チェルフィッチュと「三月の5日間」については演劇雑誌「悲劇喜劇」に簡単な解説*2を書いたほか、セミネールレクチャー*3、ブログ*4などにも何度にもわたって様々な角度から論じているので、自分としては論じつくしており、新たな観点が見当たらないほどなのだ。
それゆえ、今回の感想では「三月の5日間」がどのような作品であるかについてはあえて触れず、参照としてこのページにもリンクしてある文章などを読んでほしい。ここではあくまで今回の舞台を見ての印象に絞って書いてみたい。
 ネット上の感想などではこれまでの上演との違いをこと細かく解説したものが多いようだが、正直言ってその点についてそれほど大きな印象の違いはなかった。むしろ、驚いたのは初演のころ、演劇表現のエッジとして驚いた表現に今回はそれほどエッジ感は感じず、普通の表現に見えたことだ。
 そのことは一見「三月の5日間」が初演時に感じた斬新さを失い陳腐化したと言っているように思う人もいるかもしれないが、事実はまったく逆で岡田利規はこの1作でここ十年ちょっとの演劇の新たなスタンダードを作った。だから、最近見た表現などを踏まえてこの作品を見ると極めてオーソドックスな作品にしか見えない。そういうことではないかと思う。
 そして、そういう目でこの作品をもう一度見直すと非常にうまく構築された優れた作品という風に見えてきた。
 とはいえ、今回の上演が昔とそんなに大きく違って見えないのは観客である私の方の問題もあるかもしれない。初演では渋谷のラブホに行く男を山縣太一 が演じ「ミッフィーちゃん」を松村祥子が演じてそれぞれ忘れがたい印象を残した。
  もちろん、今回は別の俳優がその役を演じてしかも初演とはまったく異なる役作りでそれをするのだが、複数の俳優が特定の人を演じることで、そのうちのどれでもないイメージのようなものが間主観的に観客の脳裏に浮かび上がるという演劇の構造からするとそのイメージの構成には実は今見た俳優の演技と同等に記憶の中の山縣、松村の演技のイメージが関与してくる。作者としてはそこは分離して考えてほしいとは思うのだろうが、一度経験したものはなかったことにはできない。
 ましてや、今回は山縣が以前演じていた役を女優が演じていて、それゆえ喚起される想像力の発揮される部分が他の場合よりも大きい。それも以前に見た上演の記憶が関与しやすい要因になっているのではないかと思った。もうひとつはそういう想像力が喚起されるような仕掛けが上演の受容に関与していく仕掛けにおいて、デモの場面などにおいてマレビトの会の上演スタイルとの類縁性も感じさせられた。
 マレビトの会でのアイドルライブでのコールは模倣したわけではないと思われるが、「三月の5日間」のデモの場面でのシュプレヒコールと本当にそっくりだった。「三月の5日間」というと当時超現代口語演劇といわれた饒舌なモノローグが強調されることが多いが、実は多様な演劇スタイルのアマルガムのようになっていて、デモの場面の描写などはチェルフィッチュが大きくスタイルを変えたように見えた「わたしたちは無傷な別人であるのか?」以降の様式につながってきているのかもしれない。そして、マレビトの会との関係も再考する必要があるのかも知れないと考えた。
 
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