下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

CAPI「Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち」@こまばアゴラ劇場

CAPI「Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち」@こまばアゴラ劇場

右腕骨折のため観劇中止。

作:イプセン 翻訳・演出:毛利三彌
企画:髙山春夫/中山一朗/久保庭尚子/藤井由紀


いまこの日本では、いや世界中いたるところで、死んだはずの古い考えや思いがひしめき合っている!
それは再び立ち現れて、われわれを支配する!亡霊たち!
浜の真砂ほどに夥しく、この胸の中、新聞の行間にひそむ亡霊をどうしても追い払うことができない!
イプセンよ、どうすればいいのだ?」
「作者は問うのみ、答えるのはあなたたち!」


富山県利賀村で世界的な活動を続ける劇団SCOTの主催者、鈴木忠志氏と10年以上に渡り活動を共にし、世界各地の舞台に立ってきた髙山春夫、中山一朗、久保庭尚子、そして1960年代から日本の演劇界に刺激を与え続けている劇作家、唐十郎氏と長年共に活動している藤井由紀が、2014年に別役実作「マッチ売りの少女」での共演を機に、2015年9月1日に一般社団法人CAPI (コンテンポラリーアーツプロジェクトインターナショナル)を設立。
役者の立場から或いは個々の役の状況から作品を捉え直し、読み解いてゆくことで、作品の新たな解釈・魅力を引き出してゆくことを目標に、メンバーで上演してみたい作品を企画・上演している。2016年にアゴラ劇場で上演されたベケット作「ゴドーを待ちながら」(河合祥一郎新訳・演出)は、メンバーからの発案により立ち上がった企画。



出演

久保庭尚子 西山聖了(YOUGOTRUST) 中山一朗 髙山春夫(プロダクション・エース) 藤井由紀(
唐組)

スタッフ

翻訳・演出:毛利三彌
演出助手:中川順子
照明:渡邉雄太
照明操作:渡邉京子、横山紗木里
音響:渡邉邦男
宣伝美術:海野温子
舞台監督/制作補助:世amI
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)

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劇団無重力少年「幕が上がる」@国際基督教大学ディッフェンドルファー記念館

劇団無重力少年「幕が上がる」@国際基督教大学ディッフェンドルファー記念館西棟多目的ホール

右腕骨折で観劇を断念。

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幕が上がる
 平田オリザの出身大学でもある国際基督教大学の後輩でもある学生劇団が平田オリザの舞台版「幕が上がる」を改訂上演する。これは2014年にももいろクローバーZのメンバーが主演し、上演されたもので初演キャストにはももクロのほか、芳根京子伊藤沙莉青年団の主力俳優となっている井上みなみ、藤松祥子らも参加した伝説的な舞台となった。
平田オリザと本広克弘のプロジェクトでは「転校生」は昨年再演があり、そのほかにもたびたび大学の卒業公演などでたびたび上演されているが、「幕が上がる」が上演された事例はこれまでなかった。

ももクロの青春群像劇!舞台『幕が上がる』公開稽古

舞台「幕が上がる」ブルーレイ特装盤&DVD 告知SPOT(1分ver,)

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ダンスカフェ きたまり×Aokid/奥山ばらば@キラリ☆ふじみ

ダンスカフェ きたまり×Aokid/奥山ばらば@キラリ☆ふじみ

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ダンスカフェ
 ともに即興を得意とするダンサー二人のセッションが二組。

1月に上演する『幻想曲』にも出演し、京都を拠点に多彩な活動で注目を集める振付家・ダンサー きたまりが、2人のダンサーと組み、デュオ作品を踊ります。個性の異なるダンサーの組み合わせの妙をお楽しみください!
日時 2月22日(土)
   14:00~ きたまり×Aokid/17:00~ きたまり×奥山ばらば
会場 アトリエ
料金 1回500円/回数券(3枚綴り)1,200円
   ※カフェでの飲食代等は別途必要
申込開始 12/21(土)
申込方法 当館まで電話、直接来館またはオンライン申込にて
※リンクは申込開始日の12/21より有効となります

山本直樹 × さやわか × 東浩紀 「山本直樹はなぜ『レッド』を描いた/描けたのか──エロ、暴力、政治」@ゲンロンカフェ

山本直樹 × さやわか × 東浩紀山本直樹はなぜ『レッド』を描いた/描けたのか──エロ、暴力、政治」@ゲンロンカフェ

 森山塔から山本直樹へ。唐十郎からの影響。女性の主体性を認めることへのこだわり。

【イベント概要】

2006年から2018年まで、足掛け13年にわたる長期連載の末に完結した山本直樹氏の大作「レッド」(全13巻、第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞)。半世紀前の左翼集団、連合赤軍の山岳ベース事件およびあさま山荘事件にいたる歩みを緻密な取材のもとに描いたたいへんな力作である。


201612
『レッド』 ©山本直樹講談社


山本氏は1960年生まれで、あさま山荘事件(1972年)のときには12歳。けっして関係者と同世代なわけではない。また、1980年代のデビュー後は成人向けマンガを数多く手がけ、社会派として知られてきたわけでもない。そんな氏が、なぜ21世紀に入って、連合赤軍の物語をマンガのテーマにしようとしたのか。そして逆に、この作品から振り返ったときに、氏のそれまでの作品歴がどのように見えるのか。このイベントでは、物語と表現の両面から、「山本直樹が『レッド』を描かなければならなかった理由」に迫りたい。

当日のイベントでは、まずはさやわか氏が山本氏の作品歴を簡単に振り返り、「レッド」にいたる表現の歩みを紹介する予定である。東は連合赤軍事件への山本氏の評価や左翼運動の歴史をいま振り返ることの意義などについて質問する予定だが、さやわか氏・東双方ともに関心の焦点のひとつは「永田洋子の描き方」にあり、そこからはマンガ一般の女性描写の問題、あるいは現在のMeTooなどにも話題が広がっていくかもしれない。山本氏はツイッターで現在の政治状況についても積極的に発言しており、そんな話題も扱えたらと思う。

あさま山荘事件が起きたのは1972年2月19日から2月28日。48年目の同じ2月に開催される当イベントをお見逃しなく。

レッド 最終章 あさま山荘の10日間 (KCデラックス)

レッド 最終章 あさま山荘の10日間 (KCデラックス)

青年団『東京ノート』(2回目)@吉祥寺シアター

青年団東京ノート』(2回目)@吉祥寺シアター

 平田オリザはセリフのない部分の演出はそれほど細かくはしていないという話を青年団の俳優から聞いた記憶があるのだが、もしそうだとするとあの微妙な表情にはいかなる意味合いがあるんだろう。そんなことを感じさせる女優の演技が光った。 
 それは中村真央の演技だ。実はきょうまでは気がつかなかった。というのは当該の場面の直前に有名な元家庭教師(佐藤滋)とかつての教え子(南風盛もえ)の場面がある。そこで教え子が「実は妊娠していた。赤ちゃんができた」との衝撃的な告白をする場面があるからだ。有名なと書いたのは平田自身が自作について解説する際によく取り上げる場面だからで、告白の後、少し間をおいて「嘘」と否定するのだが、これは本当は妊娠はあったのかどうなのかについて、観客の見方が分かれるようになっている。今回の「東京ノート」での南風盛もえの演技はなかなか見事なものであったとは思うが、ここでは南風は舞台に背中を向けていてその表情はうかがい知ることができない。
 中村真央演じる女性は教え子が帰った後、入れ替わるように舞台に現れる。この作品には何組ものカップルが登場するが、実はこの二人の関係だけがはっきりとしない。教え子が彼が結婚しているかどうかを聞くと結婚はしたと答えるが、一緒にいた女性は妻ではないと答えるからだ。
 つまり、ここではもしこの二人が恋人関係にあるとすれば不倫なのかもという関係も暗示されるが、女性に対する男性の態度を見ていると好意はあるが、まだ付き合ってはいないようでもある。会話の端々からこうした隠れた関係性が読み取れていくのは平田演劇の真骨頂だが、感心させられたのは先ほど言及した場面での中村の演技だ。
 この場面で中村演じる女性は美術館はひとりで来るものだったと話し、それは連れがいると絵の感想を言い合わないければすまないような義務感が生じるからだと説明する。
 この後、二人はフェルメールのことや何やかやを話しはじめて、男は女性の言葉を覆すかのように「それでも二人で来てよかった。なぜなら話ができるからだ」と伝える。この前後で女性が奇妙なことを言い始める。それは「私が美術館に来たくなるのは男の人に振られた時だ」というようなことなのだが、その直後にはっとしたように「きょうは違うけど」というのだ。
 以前は一連の流れとしてスムースに流れているように感じて、ここに違和感を感じることはなかったが、きょう気が付いたのはこのあることを言ってから、直後に前言を否定するという一連の流れがその前の妊娠がらみの会話の流れとそっくりだということに気が付いたからだ。
 前と違うのはこちらは二人が横に並んでいるので互いの細かい表情は見ることができないが、観客は細かな表情の変化を見ていることができることだ。
 そして、ここで中村の表情を詳しく観察してみていると「私が美術館に来たくなるのは男の人に振られた時だ」というセリフの時に伏目がちになり、悲しみの感情表現が一瞬見て取れた気がしたからだ。
 おそらく、失恋は本当であり、それにもかかわらず男を美術館に誘ったのは彼に対してそれなりに好意があるからではないか。
 ところが、この後の彼の態度はやや皮肉である。美術館の庭にはアカシアの木があり、それを見ながら帰ろうと誘うのだが、それはここで再会した家庭教師時代の教え子に別れた時に大学の校庭にあったアカシアのことを覚えていてと言われたからなのだった。
 つまり、ここでこの二人の思いはすでにしてすれ違っていて、行く末が思いやられる感じなのだが、以上のことを踏まえたうえで、もう一度教え子の告白のことを考え直してみると、妊娠は事実だったのではないかの思いが強くなる。そういう形でこの二つの場面はつながっているのではないかと思ったのである。

山内健司 松田弘子 秋山建一 小林 智 兵藤公美 能島瑞穂 大竹 直 長野 海 堀夏子 鄭亜美 中村真生 井上みなみ 佐藤 滋 前原瑞樹 中藤奨 永山由里恵 藤谷みき 木村トモアキ 多田直人 南風盛もえ
スタッフ
舞台美術:杉山 至 
舞台美術アシスタント:濱崎賢二 
舞台監督:武吉浩二(campana) 
舞台監督補佐:海津 忠
演出助手:陳 彦君 
照明:富山貴之 
照明補佐:三嶋聖子 井坂 浩
音響:泉田雄太 櫻内憧海
字幕:西本 彩
衣裳:正金 彩 
通訳:齋藤晴香 
城崎食事:森 友樹(急な坂スタジオ) 佐藤亜里紗(boxes Inc.) 
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
撮影協力:千葉県立富津公園 千葉県君津土木事務所
制作:太田久美子 西尾祥子(sistema) 有上麻衣 金澤昭

青年団『東京ノート』(1回目)@吉祥寺シアター

青年団東京ノート』(1回目)@吉祥寺シアター

青年団東京ノート平田オリザの代表作でもあり、青年団による海外公演やアジアでは現地の劇団との共同制作による現地バージョン上演がなされてきた。それらの総決算として「東京ノート・インターナショナルバージョン」が吉祥寺シアターで上演されたばかりだが、それに続けて東京ではひさしぶりのオリジナル版の上演となった。
 作品の詳しい内容については平成の舞台芸術回想録 青年団東京ノート」(1)*1でまとめたのでそちらを参照してほしいのだが、今回の上演の最大の特徴は初演時から出演していたベテラン陣から最近まで無隣館にいた若手まで広い世代のキャストが一堂に会したことだろうか。
 「東京ノート」に欠かすことができないのが、主演以来長女役を演じ続けている松田弘子の存在であろう。もちろん、彼女はいつでも青年団に欠かせない俳優だが、「東京ノート」においては「東京物語」における笠智衆のように作品にとって不可欠な存在であろう。そして、年齢とともに年輪は増しているはずだが、あくまで観客としての印象だが初演の時とほぼ変わらない姿を見せてくれている。
 一方、対照的なのは山内健司。今回は従来は志賀廣太郎らが演じてきたフェルメールが専門の学芸員の役を演じている。山内は松田とは逆にあまりこの役という印象がないが、最近は家族の上の兄弟のうち長兄か次兄のどちらかを演じていたことが多かったのではないだろうか。今回はそれを秋山健一が演じていたが、所属事務所のサイトで経歴を見ると、
映画『淵に立つ』(深田晃司監督、2016)への出演はあっても舞台は青年団国際演劇交流プロジェクト『フェードル』(2005)への出演が最後になっている。記憶はあいまいだが、私も最近は「東京ノート」では見た記憶がなく*2、キャスト表を見て少し驚いたのでひさびさの出演ではないかと思う。
 逆に若手から今回本公演に抜擢された感があるのが南風盛もえ。家庭教師のかつての教え子の大学生の役だが、この役には幕切れ近くにきわめて印象的なやりとりがある難役でもある。いまの陣容で普通にキャスティングするとすれば今回は出ていない藤松祥子あたいが適任とも思われる役柄。藤松がなぜ出演者から漏れたかは定かではないが、この役に起用された南風盛もえは次世代ヒロイン候補に名を連ねたと言っていいのではないか。
 若手では本公演常連組の井上みなみが今回も出演しているが、ボーイッシュな役どころはこれまでにない感じで新境地といったところだろうか。

山内健司 松田弘子 秋山建一 小林 智 兵藤公美 能島瑞穂 大竹 直 長野 海 堀夏子 鄭亜美 中村真生 井上みなみ 佐藤 滋 前原瑞樹 中藤奨 永山由里恵 藤谷みき 木村トモアキ 多田直人 南風盛もえ
スタッフ
舞台美術:杉山 至 
舞台美術アシスタント:濱崎賢二 
舞台監督:武吉浩二(campana) 
舞台監督補佐:海津 忠
演出助手:陳 彦君 
照明:富山貴之 
照明補佐:三嶋聖子 井坂 浩
音響:泉田雄太 櫻内憧海
字幕:西本 彩
衣裳:正金 彩 
通訳:齋藤晴香 
城崎食事:森 友樹(急な坂スタジオ) 佐藤亜里紗(boxes Inc.) 
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
撮影協力:千葉県立富津公園 千葉県君津土木事務所
制作:太田久美子 西尾祥子(sistema) 有上麻衣 金澤 昭

 

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:「ソウル市民」(2018)に出演していたとの指摘あり。

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』前編@新宿ピカデリー

新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』前編@新宿ピカデリー

 劇場に行くことは出来なかったため、映画館のレイトビューイングで初めて歌舞伎版「風の谷のナウシカ」を見ることができた。最近は漫画、アニメ、小説なと様々なジャンルの作品を歌舞伎にした新作歌舞伎が増えているが、まだ前半だけの観劇とは言え、新作歌舞伎屈指の傑作ではないかと思った。
 作品としては風の谷のナウシカではあるが、完全に少女ナウシカを中心としたスタジオジブリによるアニメ版(宮崎駿監督)*1を歌舞伎にしたものではなく、宮崎駿の漫画版*2が原作。ナウシカクシャナという二人の女性を軸に風の谷の中の出来事だけではなく、究極兵器である巨神兵を操る秘石を巡る国家間の抗争などまで射程にしたスペクタクル活劇に仕立てあげた。
 配役的にもクシャナ姫を演じた中村七之助が当たり役で、尾上菊之助ナウシカを食ってしまうような存在感を感じた。

収録公演:2019年12月新橋演舞場公演
原作:宮崎駿徳間書店刊)
脚本:丹羽圭子 戸部和久
演出:G2
協力:スタジオジブリ

出演:尾上菊之助 中村七之助 尾上松也 中村歌昇 坂東巳之助 尾上右近 中村種之助 中村米吉 中村吉之丞 市村橘太郎 嵐橘三郎 片岡亀蔵 河原崎権十郎 市村萬次郎 中村錦之助 中村又五郎 中村歌六

上映劇場:東劇・新宿ピカデリーほか全国の映画館で前編・後編各1週間限定上映
前編2020年2月14日(金)~2月20日(木)
後編2020年2月28日(金)~3月5日(木)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(2)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(2)@中西理

 他の作品についてはどうであろうか。先ほど、準「過去」タイプとして取り上げた「ハロウィーン・パーティー」では冒頭でオリヴァ夫人の目の前でジョイス・レイノルズ殺しという犯罪が起こる。その意味で「過去」タイプではないのだが、準「過去」タイプと見なしたいのは殺人があった直前にジョイスがオリヴァ夫人の前で「自分は昔殺人事件を見たことがある」と言い出し、どうもそれがジョイス殺しの引き金になったらしいからだ。
 こうしてポワロとオリヴァーによる「失われた殺人探し」が行われることになる。つまり、「失われた殺人」の探求をメインと考えた場合、その犯罪は被害者も起こった時期も場所も分からず、その実在さえがあいまいであり、ホワットダニットの「何が行われたのか」に相当し、ジョイス殺しそのものが「失われた殺人」の伏線として存在しているのである。

ホワットダニットタイプの作品について
 次に「何が行われたか」を謎の中心としたタイプの作品について考えてみよう。これはマープルの3部作と一般に称されている「カリブ海の秘密」「バートラム・ホテルにて」「復讐の女神」の3作品である。これらの作品では探偵が調査すべき事件の存在自体が雲をつかむように判然とせず、そもそも何が事件で何が謎であるのかさえ、はっきりとしないという特徴を持っている。
 特に「バートラム・ホテルにて」は東山氏の定義によるホワットダニットの特徴とよく一致している。「バートラムホテルにて」では明かされるべき犯罪の存在は真相が明らかにされた時、初めて示される。ペニフェザー牧師の奇妙な失踪事件や列車大強盗などがワキ筋として示され、錯綜した人間関係の描写の裏に何らかの事件のようなものが進行していることが暗示されるのだが、これらの描写はすべて真相に対しては伏線としてのみ存在している。章末付近で殺人事件が1つ起き、その解決も示されるのだが、それもおざなりのものに過ぎず「バートラムホテルにて」のメインはバートラムホテルというホテルの正体そのものなのだ。
 物語は次のように始まる。作者クリスティーは事件の舞台となるバートラムホテルのことをこのように語りだす。

 ハイドパークから出ている、これといった目立たない通りをはなれて、左へ右へ一、二度まがると静かな街路へ出る。その右側にバートラム・ホテルがある。バートラム・ホテルはずっと昔からそこにあった。戦争中にその右側の家々が取り払われ、また少しはなれた左側の家も取りこわされたが、バートラム・ホテルだけはそっくりそのまま残った。そんなわけだから、家屋売買業者にいわせると、傷だらけよごれだらけという状態をまぬがれなかったが、ほんのわずかな費用でもとの状態に修復された。1955年にはこのホテルは1939年当時とそっくりになっていた。―高い品格であって、地味で、また目立たないぜいたくもあった。
「『バートラム・ホテルにて』(乾信一郎訳)」

 中に入ると、バートラム・ホテルにははじめての人だったら、」まずびっくりする。――もはや消滅した世界へ逆もどりしたのではないかと思う。時があともどりしている。まるでエドワード王朝時代の英国などである。「同上」

この儀式を主宰しているのがヘンリーで、壮大な身体づき、男盛りの五十歳。親しみがあって、オジサン風で態度は丁重、もはや消滅して久しい種類の人間、完璧な従僕である。そのヘンリーの謹厳な指図で、背のすらりとした若者たちが実際の仕事を執り行っている。紋章付きの銀製盆にジョージ王朝時代の銀製ティーポット。茶は本物のロッキンガムやダペンポートではないにしても、それらしく見える。無差別のサービスがまた特に好ましかった。茶は最上のインド、セイロン、ダージリン、ラプサンなどであった。おつまみとしては好きなものは何でも注文できたし……また、その注文がかなえられた。「同上」

古き良きエドワード王朝の面影を残すバートラム・ホテルに現代からの闖入者として、女流冒険家のベス・セジウィック、その娘の若いエルヴァイラ、そしてオートレーサーでベスの愛人のラジスロース・マリノスキーが現れ、この3人の三角関係を中心とした錯綜した人間関係が描かれる。
 そして、一方ではそれと並行して、クリスティー描くところの典型的なビクトリア朝人物であるペニウェザー牧師が登場し、その奇妙な失踪事件の顛末も語られることになる。そして、さらにワキ筋としては一連の強盗事件の捜査を進めているロンドン警視庁の様子も語られる。
 一見無関係に思われるこれらの出来事が同時進行で語られることにより多層的な世界が創出されるのだが、こうした別々に思われる出来事は1つの犯罪の伏線として回収されていくことになる。ここでは従来のミステリ小説でよく取られた「事件→捜査→解決」とは全く異なるプロットによって物語は進行していくのだ。
 この作品では東山氏が「第四の推理小説」の中で予言的に言及した純粋のホワットダニットは推理小説でありながら、その小説的な部分に制約を与えずに、しかも数奇な意外性を持つという特徴がある程度実現されていることが分かる。意外性という意味では初期の作品で大トリックによってスプライズドエンディングを追求したクリスティーが晩年に至って、今度はホワットダニット型の小説に到達するにいたったという流れがある程度了解されるのではないだろうか。

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「RE/PLAY Dance Editに見る、国を越えたダンス共同制作の形」 @アーツカウンシル東京 大会議室

「RE/PLAY Dance Editに見る、国を越えたダンス共同制作の形」 @アーツカウンシル東京 大会議室

東京芸術文化創造発信助成【長期助成プログラム】活動報告会 第8回

スピーカー(報告者)
多田淳之介(演出家)
きたまり(振付家・ダンサー)
岡崎松恵(プロデューサー)
司会進行
北川陽子(アーツカウンシル東京 企画助成課 演劇・舞踊分野担当シニア・プログラムオフィサー)

国際共同制作としてシンガポールプノンペンカンボジア)、マニラ(フィリピン)で上演してきた「RE/PLAY Dance Edit」についての報告会。舞台芸術の海外での共同制作の事例は増えてきており、特にアジアでのそれは珍しいものではないけれど、今回のようにアーツカウンシル東京の長期助成(3年間)、芸術文化振興基金の助成を受けて実施された成果を報告した。
simokitazawa.hatenablog.com

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(1)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(1)@中西理



*1
 序説
 アガサ・クリスティー、J・D・カー、エラリー・クイーンという本格推理小説の3大巨匠のうち、ほかの2人がその晩年においては、ほとんどめぼしい作品を発表せずに、むしろ大家としての記念碑的な意味合いしかなかったことを考えれば、死の直前までのクリスティーの健筆ぶりは驚くべきことであった。
 しかもクリスティーはその晩年において彼女独特としかいえないような新たな種類のミステリを書いていた。そしてそれは徐々に完成の域に近づきつつあった。それは従来の本格推理小説のワクに入りきらないものであり、まさに「クリスティー流ミステリ」としか言いようがないようなものだった。本論考ではそれがどんなものであり、その後の英国ミステリの系譜にどのような影響を与えたのかについて考えていきたい。

アガサ・クリスティー
 
 第一章 トリック・メーカー

 3大巨匠のうちエラリー・クイーンはその本質を「フーダニット」の作家として評価することができる*2かもしれない。クイーン名義の代表作である国名シリーズ(「エジプト十字架の謎」「ギリシア棺の謎」……など)、あるいは当初バーナビー・ロス名義で発表された「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」「レーン最後の悲劇」4部作にいずれも読者への挑戦状が挿入されていたことからも分かるように、その独特の論理を駆使することによって「誰がおこなったのか」を考えさせるのがクイーンのスタイルであった。(この当時はクイーンについてそう考えていたが、その後、中期以降のクイーン*3についてはそれ以外の要素が強いことにも気が付いた。)*4
 それに対して、カーはハウダニットの作家であると言ってもいいかもしれない。それは「赤後家の殺人」「皇帝のかぎ煙草入れ」「三つの棺」という彼の代表作からも分かる。彼の作品の特徴は、まず密室殺人に代表されるような不可能状況を提出し、次にそれが「どのように行われたのか」を問うことにあったように思われる。
 それではクリスティーはどうだろうか。他の2人ほどの特徴はないようである。クリスティーには「ミステリの女王」なる称号はあってもその作品に関しては「論理のクイーン」「密室のカー」というようなキャッチフレーズはない。
 そこでまずクリスティーの代表作といわれている作品を具体的に示して、その特徴を抽出してみることにしたい。
 最初に挙げたのはクリスティーのファン倶楽部の会報である「ウィンターブルック・ハウス通信」によるクリスティーファンによるベスト10である。

1、「そして誰もいなくなった」1939
2、「アクロイド殺し」1926
3、「予告殺人」1950
4、「ABC殺人事件」1936
5、「オリエント急行の殺人」1934
6、「火曜クラブ」1932
7、「ナイルに死す」1937
8、「葬儀を終えて」1953
9、「ゼロ時間へ」1944
10、「スタイルズ荘の怪事件」1920

 そして次は「クリスティー自身によるベスト10」。

1、「そして誰もいなくなった」1939
2、「アクロイド殺し」1926
3、「予告殺人」1950
4、「オリエント急行の殺人」1934
5、「火曜クラブ」1932
9、「ゼロ時間へ」1944
6、「ABC殺人事件」1936
7、「終わりなき夜に生まれつく」1967
8、「ねじれた家」1949
9、「無実はさいなむ」1958
10、「動く指」1943

こちらは京大ミステリ研会員によるベスト10である。
蒼鴉城第七号陣木麻也隆「クリスティー問答」より

1、「そして誰もいなくなった」1939
2、「オリエント急行の殺人」1934
3、「ナイルに死す」1937
4、「葬儀を終えて」1953
5、「ポアロのクリスマス」1938
6、「白昼の悪魔」1941
7、「無実はさいなむ」1958
8、「五匹の子豚」1949
9、「ねじれた家」1949
10、「エッジウェア卿の死」1933

 以上の結果から見て、一般にクリスティーの作品で読者に高い評価を受けているのは1930年代から40年代にかけて執筆された作品だということが分かる。「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」といった作品への高い評価がそのことを示している。それらは一般にミステリ史上に残るような「大トリック」を使った作品として知られている。_
 その意味ではクリスティーは偉大なトリックメーカーであったといってよいかもしれない。叙述トリックに先鞭をつけフェア、アンフェア論争を巻き起こした「アクロイド殺し」、意外な犯人の極限ともいえる「オリエント急行の殺人」、そして後の作品に影響を与えたという意味ではいまやABCパターンの言葉もつかわれるほど幾多のバリエーションが現れ、「見立て殺人」というジャンルを確立したといっていい「ABC殺人事件」。いずれもクリスティーがミステリにおける新機軸として最初に発表したトリックである。そしてこれらのトリックはいずれもサプライズドエンディング(意外な結末)と密接に結びついたものであることも見落としてはならない。
 しかし、そのことをもう一度考え直してみよう。優れたトリック、結末の意外性というのはよく出来た推理小説が共通して持っているものだ。一概にクリスティー独自の特徴とはいえないだろう。しかもそうした実績はミステリ史的には特筆すべきものであると言えるのだが、現代の読者の目から見てみるとその後のミステリ作品がそうした着想を前提として書かれているものであるゆえにいささか古色蒼然と見えることも否定しがたい。
これに対し、クリスティーの特徴を騙し方の見事さにあると指摘したのがミステリ作家のロバート・バーナードだった。彼のクリスティー論「欺しの天才―アガサ・クリスティー創作の秘密―」は、その騙しの技巧についての精妙な分析でもあった。しかしながら、実は私はこれにも異論を持っている。

 このことを考えてみるとき私はいつも一つの言葉を思い浮かべずにはいられない。それは外連(けれん)という言葉だ。外連とは歌舞伎や浄瑠璃から来た言葉で、辞書には「芸の本道からはずれ、見た目本位の奇抜さをねらった演出という意味で、離れ業(わざ)、早替り、宙乗りなどのこと」とある。
 クリスティーの1920、30年代の傑作群はそういう意味で外連味に溢れた作品だ。一方、外連と対極にあるのが名人芸といっていい。外連味あふれる作品は、華麗で派手で人目を引くし、誰にも真似できないものに感じられよう。しかし、それでも真のオリジナリティーは名人芸にある。クリスティーにおいて本当に独自性が豊かで、彼女にしか書けないような作品は晩年の作品であり、そこにこそ彼女の名人芸があったということを論証しようというのがこの論考の目的である。

 第二章 クリスティー後期の作品について
 それではクリスティーにしか書けない作品とはどのようなものであったのだろうか。それを論じるためにこの章では、クリスティーの後期作品について少々の分析をしてみたいと思う。
その前にここで便宜上クリスティーの80以上にもわたる作品を前、中、後期の3つに分類しておく。ただクリスティーの場合はクイーンとは違って時期別の分類にはこれといった定説はない。それゆえ、これから述べる時期分類はあくまで便宜的であり、私の個人的な分類であることは断わっておく。私の分類ではデビュー作「スタイルズの怪事件」から「動く指」まで(1920−1943)を前期、「ゼロ時間へ」から「複数の時計」まで(1944−1963)を中期、「カリブ海の秘密」から「運命の裏木戸」まで(1964−1973)までの最晩年を後期としておきたい。ただし、実際の執筆時期を考えると「カーテン」「スリーピング・マーダー」の2作品は前期あるいは中期に含まれる。 
 年代順にクリスティーの後期作品を並べてみることにする。

カリブ海の秘密」 1964 マープル ◎
「バートラム・ホテルにて」 1965 マープル ◎
「第三の女」 1966」ポワロ ◎
「終わりなき夜に生まれつく」 1967 
「親指のうずき」 1968 トミーとタペンス ×
ハロウィーン・パーティー」 1969 ポワロ ×
「フランクフルトの乗客」 1970
「復讐の女神」 1971 マープル ◎
「象は忘れない」 1973 ポワロ ×
「運命の裏木戸」 1973 トミーとタペンス ×

×「過去」タイプ  ◎ホワットダニットタイプ

 クリスティーの晩年の作品を概観してみると、そこに顕著な2つのタイプのミステリが出現してきているのが分かる。1つは実際に起こった事件が非常に昔のことで、表面に現れた事実だけからでは、本当は何が起こったのかがはっきりとは分からないというもの。上記リストの×印の作品がそれだ。これをクリスティーは「過去の罪は長い影を引く」と称した。このモチーフは晩年のクリスティーの作品に何度も繰り返し現れる。
 2つ目は物語の進行につれ、何やら事件らしいものの影は現れるのだが、実際には何が起こったのか分からないというタイプ。これも晩年の作品には繰り返して現れる。
 ここで注目したいのは2つのタイプの双方において謎の中心が「何が起こったのか」あるいは「何が起こっているのか」に向けられていることだ。
 我が京大ミステリ研究会きっての論客である東山純一氏は評論「第四の推理小説」(蓮沼尚太郎 「蒼鴉城」NO.6)のなかで推理小説の謎を進化していくものという仮説の基にフーダニット(誰が行ったのか)、ハウダニット(どのような方法で行ったのか)、ホワイダニット(なぜ行われたのか)に次ぐ「第四の推理小説*5としてホワットダニットの存在を提唱した。
 そして、その評論でホワットダニットを「何が行われたか」を中心興味となった作品のことであり、「純粋なホワットダニットにおいては決して事件が起こる『犯罪の存在が示される』ことが端緒にはなりえないのであって、そのために真相は明かされるべきものとして初めから存在しているということは不可能になり、常に多くの事実から導かれ、そうしてようやくその存在が肯定されるものとなる」とされ、「よって必然的に多くの事実は、決して証拠として存在するのではなく、伏線としてでしか存在しないということになるのである」(「第四の推理小説」)としている。
 それではクリスティーの場合はどうか。まず先に挙げた2つのうち「過去の罪は長い影を引く」タイプ(以後「過去」タイプと略す)の作品について考えてみたい。
「象は忘れない」と「過去」タイプホワットダニット
 「過去」タイプの作品は後期のリストに「親指のうずき」「ハロウィーン・パーティー」「象は忘れない」「運命の裏木戸」と4つある。
 もっとも「ハロウィーン・パーティー」においては実際には殺人事件が物語の冒頭に起こっている。そのため、これにこの分類には当てまらないのではないかと思う人もいるかもしれない。冒頭の殺人事件の動機となる「過去にどこかで起こっていたかもしれない事件」の探求にその主題はある。そのためこれは準「過去」タイプと称した方がいいのかもしれない。
 ここではまず純粋にこのタイプの典型といえそうな「象は忘れない」について考察してみることにする。この作品の主モチーフは12年前に起きた心中事件の真相を探ることだ。まず心中した(ということになっている)レイヴンズクロフト夫妻の娘のシリアの口によりいささか漠然とした形で事件はポワロに知らされる。12年前に起きた事件で夫妻は確かに死亡したのだが、はたして妻の方が夫を殺したのか、夫の方が妻を殺したのかというのである。
物語は当時の事件の関係者にポワロと女流ミステリ作家のアリアドニ・オリヴァーがインタビューして回ることで進行する。これは捜査でも尋問でもなく、まさにインタビューという呼び方が相応しいもので、日常会話の中で進められる。その中で読者は事件についての様々な断片的な事実を知らされることになる。
 例えば、シリア・レイヴンズクロフトには妹がいて、心中事件の起こる前3週間ばかり、レイヴンズクロフト家に滞在した後、崖から落ちるという悲劇的な事故を起こしていたこと。亡くなったマーガレット・レイヴンズクロフトの持ちものの中にかつらが4つあったこと。レイヴンズクロフト夫人によくなついていた犬が突然夫人にひどく噛みついていること。これらの断片的な事実はそのまま生の形で読者に与えられるわけではなく、いずれも登場人物の回想の一部として与えられる。
 そこでは主観的な事実関係が互いに相矛盾することさえままあるのである。12年の間に関係者の記憶は薄れ、アリバイや証拠物件は容易には提出できない。それだけに証言の中から必要な要素のみを取り出し灰色の脳細胞により再構成していくというポワロの探偵法は現在進行形の事件以上に生きてくるわけだ。
 「過去」タイプの作品では事件はすでに昔起こっているのであり、東山氏のホワットダニットの定義「多くの事実は決して証拠として存在するのではなく、伏線としてしか存在しえない」と相反するように思われる。しかしながら、この作品においても実は明かされるべき犯罪は別に存在していて、真相が明らかにされた時に初めて事件の存在そのものが、真相のための伏線にすぎないことが分かるという構造となっており、その意味で「象は忘れない」がきわめてホワットダニット的な味が強い作品だということが分かるのだ。

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simokitazawa.hatenablog.com

*1:外畑蛇帰は綾辻行人ペンネーム。法月林太郎は説明不要。小城魚太郎は巽昌章さんです。

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:simokitazawa.hatenablog.com

*4:simokitazawa.hatenablog.com

*5:東山氏は典型的なホワットダニット型の作家として泡坂妻夫を挙げている。「第四の推理小説」は泡坂妻夫論なのである。