下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「受賞作なし」の内幕 第65回岸田國士戯曲賞選評掲載

第65回岸田國士戯曲賞選評掲載

白水社のホームページに第65回岸田國士戯曲賞選評が掲載されていることに遅ればせながら気が付いた。今年の岸田國士戯曲賞は「受賞作なし」という結果、それ以上にそこに付された野田秀樹氏のコメントに違和感を持ち、そのことについて以下のような文章*1を書いた。ここから先は私個人の愚痴のようなものも含まれているのでどうでもいいような話ではあるが、私はこのことである人から「若者にすり寄る老害」と名指されて相当にへこむという出来事もあった。
 この時に問題と感じた最大の原因は白水社により発表された「コロナを意識しすぎて距離感のとれていない作品が多かった。戯曲のコトバとしても、こちらをワクワクさせるものが少なかった。」(野田秀樹)というコメントで、劇作家としての戯曲に対する評価である後段の「戯曲のコトバとしても、こちらをワクワクさせるものが少なかった」というのは言葉の魔術師でもある野田秀樹氏が若い作家に抱きがちな評価でもあり同意はできなくともことさら問題とするまでもなかったが、前半の部分は今年の演劇について評する言葉としては「どうか?」*2とも思ったからだ。
 今回掲載されたのは全員分ではないものの、当該の野田秀樹氏をはじめ、岩松了岡田利規平田オリザケラリーノ・サンドロヴィッチ矢内原美邦の各氏の選評が公開されたが、野田秀樹氏をはじめいずれも審査員がなぜ受賞者を出さなかったのかをかなり克明に明らかにしており、なかでも矢内原美邦氏の「読んでいてぐっと引き込まれるような魅力的な作品は正直多くなかった。それでも私には受賞作なしという選択肢はなかった」という考えの表明や「私には受賞作なしという結果を受け入れることしかできなかった。その結果は残念でならない。受賞作なしは二〇〇七年以来のことらしい。そのときノミネートされていた名前を見るといまや第一線で活躍している人ばかりだ。今回の八人の作家にも受賞作を出さなかった選考委員たちを見返すような活躍を今後もしてほしいと思う」という結びには「我が意を得たり」と思うところがあった。

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最後に今回の選考についての野田秀樹氏の選評をいささか長くなるものの誤解の余地があってはならないので全文引用してみる。野田氏と意見の一致しない部分はあるが、少なくとも野田氏は候補者の一部が問題にしたコメントにあった「コロナを意識しすぎて距離感のとれていない作品が多かった」などということはこの中では言ってないようだし、コメントを掲載した白水社側の早とちりだった可能性を否定できないようだ。白水社側からのなんらかのコメントが欲しいところだが、コメントや謝罪をするということはどうやらなさそうだ。

大きく構える   野田秀樹

 今年の作品は、いずれも「甘い」。ゆえに受賞作なしとなった。少々手厳しい物言いをさせてもらえば、「このくらいの感じのものを書いておけば芝居になる」と思っていないか? ということだ。
 いろんな作風があるだろうが、そのいずれにしても、「もっと大きく構えませんか?」と訴えたくなる。我々は今、「目の前ですぐに結果を見せないといけない」、「短い言葉で答えを出さなくてはいけない」そんな世界を強いられている。だからこそ、自戒の意味をも含めて、「創作するものは、大きく構えないといけない」。勿論、個々の「創作」の苦しみは、分かっているつもりなので、そんなことはないという反論が返ってくるのも重々承知だ。だが早い話が、オンラインナントカといったような言葉に騙されておろおろしていてはいけない。「演劇」はそんなところにはない。オンライン配信を否定しているのではない。ビデオ撮影が貴重な映像になったように、貴重にはなりうるかもしれない。だが「演劇」そのものにはならない。そして、「演劇」の上演の為に書かれるのが「戯曲」であるのならば、「戯曲」は「オンライン」の為に書かれてはならない…と考える(もちろん仕掛けとして使うことは否定しない)。

 今年の作品の中では、金山寿甲氏の『A−②活動の継続・再開のための公演』が面白かった。言葉が弾んでいる(ま、ラップだから当たり前なのだろうが…)。天性の言葉遊び好きなのだろう、こういう才は、一つの病である。良い。取り上げている素材である「文化庁のなんたらかんたら」には、私も一年間、大変な思いをさせられて取り組んだ側の人間であるから、的を射ており笑わせてもらった。その素材も含めて、作品全体は「上昇志向」と「俺たちを受け入れないこの世への憎悪」が基調となっている…気がした。すなわち「うっせえ」という声である。私がこの作品を「甘い」と呼ぶのは、その「うっせえ」の声は聞こえました。「で、どうする?」ということです。徹底的な「ラップ」という言葉遊びで立ち向かうのか、どうするの? そこがはっきりしない。だから「甘い」。だから最後、お客さんにありがとう、なのか。「うっせえ、マスクを取れよ」くらいのことは言って欲しかった。この「ディスる悪意」に徹するならば。
 他にも小田尚稔氏の『罪と愛』も、「大きく構えよう」とする志はあるように思えた。特に、高校球児のボールの壁あての件(くだり)は面白かった。あそこをもっと膨らませるべきだ。が、全体としては、まだ、「無頼に憧れている作家」の楽屋落ちに思えた。金にならない「演劇」という道を選んだ人間には誰にも覚えのあることである。昔(今も健在か?)、大川興業というパフォーマンス集団があって、彼らは「金なら返せん!」と、貧困演劇人の暮らしを表現として昇華させた。あそこまで行って欲しい。
 長田育恵氏の『ゲルニカ』は、労作なのだが、日本独特の「翻訳文学」の悪しき表現に憧れているところが目立った。明治以来の「新劇」という西洋文化コンプレックスが産んだ「お芝居っぽいセリフ」が私の耳には、かえって、リアリズムに聞こえなかった。
 また「女にしか伝えられないこと」が、「妊娠と赤ちゃん」というのもいただけない。創作者はそこに逃げ込んではいけない。作り手が最後に陥りやすい「甘い罠」である。
 内藤裕子氏の『光射ス森』も、資料を丹念に読みこみ、上手く書こうとしている。多分、上手く書いたのだろうが「甘い」。「人間」が甘い。…と、故井上ひさし選考委員ならおっしゃっただろう。悪い人を書けばいいというものではない。だが、「年配者には経験があり知恵がある」というステレオタイプな思い込みだけで、作品すべてが貫かれている。山が好きな、良い人たちばかりの、良い二家族の話で、古き良き時代のテレビドラマの「甘さ」だけが残った。

 すべての作品に、少しばかり辛辣な物言いをさせてもらったが、「可能性」は、どの作風においても大きいと感じる。こんな「年寄りの世迷いごと」に惑わされることなく、時間をかけて「大きく構えて」引き続き、創作に専念していただきたい。

 ちなみに以下が矢内原氏が挙げている前に「受賞者なし」とした2007年の候補作家・作品である。

第51回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧 (作者五十音順、敬称略)

青木豪『獏のゆりかご』(『せりふの時代』2006年秋号)
赤堀雅秋津田沼』(上演台本)
中島淳彦『ゆれる車の音』(上演台本)
はせひろいち『歪みたがる隊列』(上演台本)
東憲司『海猫街』(上演台本)
蓬莱竜太『ユタカの月』(上演台本)
前田司郎『さようなら僕の小さな名声』(上演台本)*3
本谷有希子『遭難、』(上演台本)

 繰り返しになるが落選した候補者は上に並んだ錚々たる劇作家と自分は並んでいるんだと思い、受賞作を出さなかった選考委員たちを見返すような活躍を今後もしてほしいと思う。

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:そういえばこの「さようなら僕の小さな名声」ではそれまで二度に渡って最終選考で落とされたことを根に持っていたためか、異界の国に行って岸田戯曲賞を二個もらうというエピソードを入れていたのを思いだした(笑)。さすがにこの年は落ちたが後に受賞しているので、審査員の方は根に持つことはしないことが証明されたかもしれない。