下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ポストコロナ・現代演劇を巡る新潮流vol.1 HANA’S MELANCHOLY(一川華・大舘実佐子)インタビュー

次世代の演劇作家を取り上げ、紹介する連載「ポストコロナ・現代演劇を巡る新潮流」は作品への評論(劇評)と作家のインタビューの2本立てでスタートすることにしたい。第一弾として取り上げるのはHANA’S MELANCHOLY(ハナズ・一川華・大舘実佐子)である。
HANA’S MELANCHOLYの作品に初めて遭遇したのは2019年7月の新宿眼科画廊 スペース地下で観劇した「人魚の瞳、海の青 Eyes of the Mermaids, Blue of the Sea」である。劇団からの招待状をメールでもらいその時には何の前知識もなくでかけたのだが、その作風は童話「人魚姫」を下敷きにしながら、人身売買を寓話として描いた硬派の作風で、以後いくつかの舞台を見せてもらったが、東京の若手演劇人が最近上演しているような作風とは大きな差異を感じた。女性作家・演出家のコンビによるプロデュースユニットのようであったが、今回本格的にインタビューを試みるまではこのような傾向の作品が現在の東京でどのようにして生まれてきたのかよく分からない部分が多かった。今回はインタビューでそれを解き明かしていきたい。
(インタビュアー/文責:中西理)

幼馴染の二人 それぞれの演劇との出会い

中西理(以下中西) 最初にお二人が演劇に出会ったきっかけが知りたいと思いました。最初にいつどんな演劇と出会い興味を持ったのでしょうか。まず、劇作を担当している一川さんからお願いします。
一川華(以下一川) 中学2年生の時に初めて劇団四季の舞台を見て、そこですごく人間はこんな狭い限られた空間と限られた舞台美術とか俳優の数でここまで表現ができるんだなという演劇の可能性にすごく魅せられ、そこから演劇に関わりたいと思うようになりました。最初かかわり方が分からなかったので、演劇のレッスンとかダンスとか歌とかを俳優のレッスンをそこから始めました。
中西 それでは今もミュージカルにかかわっていらっしゃるようですが、ミュージカルがきっかけだったという感じですか。
一川 そうです。もともとはミュージカルが好きでした。
中西 劇団四季の何を見られたんですか?
一川 「美女と野獣」を見ました。ディズニーが凄く好きだったので。それで次は大館(実佐子)とのHANA’S MELANCHOLY結成の話になってしまうのですが、大学(早稲田大学)に入ってから、演劇を自分たちで作りたいねという話を大館とたまたま会った時にしまして、私は俳優をやっていたし、大舘は演出家になりたいという希望があるのをカフェで話して、「じゃあ一緒にやろうか」ということになった。それで学生時代から二人でやってきたという感じです。
中西 お二人はいつから知り合いなんですか?
一川 私たちは小学校からの同級生で、小中高ずっと一緒に育ってきました。
中西 幼馴染だったんですね。漫才師とかだったらいるけれど、演劇でそういう関係性はあまり聞いたことがない。非常に珍しいと思います。一川さんの経歴を見ると親の仕事の関係か何度も海外で暮らしていらっしゃるようなので、大人になってから出会われてたんだと思っていました。
一川 実際小中高で私は海外に二度行って退学転校もしたんですが、同じエスカレーター式の学校*1で同じところに帰ってきたので、大舘とは離れている時期はあったのですが、小中高ずっと一緒でしたね。それで二人で演劇始めた時に脚本家がいなかったので、小さな頃から物語を書くのが好きだった私が脚本を担当することになりました。
中西 次は大舘さんにお聞きします。今の話の流れからすると重なってきちゃう部分はあるとは思うのですが、まずは演劇を始めたきっかけをお聞かせください。
大舘実佐子(以下大舘) 演劇を始めたきっかけは私は幼稚園の頃からクラシックバレエをやっていまして、4歳ぐらいから始めて16~17ぐらいまでやってたんですけど、それは完全に趣味だったのですが、もの凄く没頭して週5、6回バレエに通っていたのが、通っていた学校は進学校で受験を前にするとそれに向けて邁進するような空気感が出てくる中でバレエをやめることになった。とはいえ、バレリーナになることを目指して頑張っていたということでもなかったので、やめることには大きな決意とか覚悟とかはなかったんですけど、バレエじゃなくても舞台に関わっていたいなというのがひとつあった。それとバレエは言葉の代わりにマイムで表現するのですけれど、マイムがすごく面白いものだなとそこに興味があって、マイムは演技だから演技を学ぶとなったら今度は演劇じゃないかということに高校1、2年の時に自分の中で興味が移行していって、その時にちょうど受験が重なった。受験の息抜き的な感じで華と創作ミュージカルミニパフォーマンスのようなことを学校のイベント的なことで発表するためにいろいろやっていた。その時に一川が本を書いて曲とかを選んできて、それをどうやって見せるのかを考えているうちに見せる側の人が必要じゃないですか。それでそこで初めて演出らしいことをした。この辺りが自分の中で演劇をやっていこうというか興味が演劇に移行していったきっかけだった。私も同じように演技を学べるスクールに行きたいと思って、演技レッスンが受けられる専門学校に1年ぐらい通った。それが高校の初め頃なんだけど、その後どうしてももっと本格的に演出を学びたいと思い美大東京芸術大学)を受験しそこに入学。学内で劇団を立ち上げたんです。
 (高校時代は)校則が厳しい学校だったので出来ないことが多かった。芸能活動らしい芸能活動というのはいっさいしたらいけなかった。それで卒業後は名前を出して活動できるなどいろいろ解放されたから、自分たちのなかでやりたくてできなかったこともできるようになり、それで自分たちで初めてプロジェクトを立ち上げてというのがHANA’S MELANCHOLYの母体になった。それが大学1年生の時だから18歳の時でした。
 ただ、そこから今の形になるまでがけっこう長くて、割と探り探りやってきている。一川もここまでの間に役者じゃなくてHANA’S MELANCHOLY1本でやっていこうということがあったりいろんな契機があったんですけど、大学4年間はプロジェクトという形で二十人くらいともっと大人数でやってきた。小中高の同級生もけっこう美大に進学した子とかがいて、そのメンバーとかも巻き込んで活動をしていた。
中西 それでは東京芸大に在学してはいたけれど、活動自体は学内の劇団というよりは外に開かれたプロジェクトだったんですね。
大舘 そうです。一川が早稲田に在学していたのでそこの学生もいたし、美大といっても東京芸大だけでなく多摩美術大学や武蔵野美術大学の子も広く参加していました。
一川 最初、私たちしかいなかったので、SNSで舞台を一緒にやりたい人というので募集をかけたんです。そこで知っている人、知らない人を含めて30人くらい集まって、そこから皆でやり始めました。
中西 それでは最初は核になる2人を中心に緩やかなネットワークのように集まって始まったんですね。その時のメンバーで現在も俳優やスタッフとして残っている人はどのくらいいるのでしょうか。
大舘 数人はいますが多くは大学4年間で就活の時に皆辞めていったりしたので、これはまたHANA’S MELANCHOLY結成の話になりますが、改めてHANA’Sでやっていこうとなったときにはもう私たちしかいない状況で、けっこう皆就職したり演劇やめてしまったりという感じでした。
中西 そうですよね。学生演劇の劇団でやっていてもそこから劇団としてプロとしてやっていこうという意思疎通がとれるのは相当なハードルに高いハードルがありますよね。特に一川さんは早稲田だったから分かると思うのですが、昔の第三舞台とか最近で言うと劇団あはひとかはすでに在学中から突出した存在であって、そういうところが劇団としてプロになっていくようなところはあります。そうでないと、あるいはそういう劇団を近くで目撃していると自分の才能を見切ってしまう人も多いような気がします。
大舘 見切るというのは本当にそうで、前段階の時は4年間で3作品しかやってないんですよ。やっぱり1年に1本かそれに満たないほどしか出来ないというようなスパンでしかやれていなかった。


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