下北沢通信 大人計画「ファンキー!」、犬の事ム所「ドアの向こうの薔薇」
大人計画の「ファンキー!」(本 多劇場、7月17日)は色々なこ とを考えさせてくれる刺激的な舞 台であった。
情報誌へのインタビューなどで、 松尾は芝居のテーマは「身体障害 者の性の権利」と語っていたが、 この作品を全体として見た場合に は身体障害者の問題は全体のなか に包括されていくエピソードの一 つに過ぎない。
では、この芝居はなにを描いて いるのか。この芝居が正面から描 くのは欲望を持つ人間というもの の悲劇ではないか。ただ、その悲 劇性は現代の日本では説得性を持 ちえず挫折している。
一見、わき役的存在でありなが らこの物語を体現しているのは井 口昇の演じるコンノである。彼の 目標は女の子にもてて、「やれる こと」だ。しかし、醜さゆえに相 手をしてくれる女もなく、セック スができないままに最後は狂おし いまでのなさけなさを見せて、死 んでいく。これは構造としては悲 劇なのだが観客にとっては喜劇で しかない。
身体障害者のエリカとミヤゴシ の親子もそうである。二人は近親 相姦の関係にある。身体障害者の 娘の性衝動のはけぐちに自らがな ったわけで、この行為は倫理的な 問題は別にしても、ある種美談の 要素があることなのだが、実際に 起こったことはそれほど単純では ない。ミヤゴシは妻が昔、オシキ リと不倫をしており、エリカはそ の時に出来た不義の子であると思 っている。妻の自殺もそれが原因 と疑っており、それにも関らずオ シキリに復讐ができない代償行為 として動物の虐殺などの行為を犯 し、神の罰を受けるのを待ってい る。エリカとの性行為もその一環 ということが分かるからだ。ミヤ ゴシは最後にオシキリの手によっ て慈悲としての死が与えられるが ことここにいたっては全てが手遅 れで、悲劇となることもできない。
物語のメインのエピソードをな す元子役のテレビディレクター、 シマジと大人としての欲望を拒否 して少女の姿のままでいるアイコ の物語も同様である。二人の再会 で、アイコの欲望が解放されるこ とで、彼女は大人へと成長を始め るが、それを通りこして老化し、 やはりシマジの手により慈悲とし ての死を与えられることになる。
古くはシェイクスピアからチェ ホフ、テネシー・ウィリアムズま で劇作家は欲望が裏切られるとき の人間の悲劇を脈々と描いてきた。 その意味では松尾の描く世界は変 わって見えようとこうした作家の 系譜につらなる正統的なものだ。
松尾の描く世界はナンセンスコ メディーと評されることがあるが、 むしろ悲劇が成立しなくなった現 代の日本で、成り立つために作り だした喜劇的な新たな悲劇のあり かただと解釈するべきかもしれな い。
犬の事ム所の大竹野正典は岩崎 正裕(199Q太陽族)、後藤ひろひ とと並んでこのところ京都勢に押 され気味の大阪の劇作家ではもっ とも期待している一人なのだが、 やっと前作「サラサーテの盤」か ら一年七カ月ぶりにして、新作「 ドアの向こうの薔薇」(8月11日、 OMS)を書き上げ上演にこぎつけ た。
これも過剰な性的欲望を持つた めに周囲と正常な関係が持てなか った男の悲劇なのだが、松尾の作 品同様ここでも悲劇は悲劇的な語 り口で、語られるわけではない。
モデルとなっているのは一九六 二年から一九六三年にかけて十三 件の連続殺人を起こし、全米を震 え上がらせた殺人者アルバート・ デサルボの事件で、確かにこの芝 居のいくぶんかは歴史的な事実に 基づいている。だが、舞台はいき なり新聞勧誘員が「琵琶湖新聞」 を勧誘にくるという、日本なんだ かどこなのだか、分からぬ辻褄の あわない世界で、展開していく。
突然なんの脈絡もなくでてくる 顔面風船割りなど犬事ムの芝居は ばかばかしいシーンはどこまでも ばかばかしい。それでいて主人公 の心情はどこまでも真摯かつ繊細 に描かれる。舞台上で展開される のは濃密な情念をただよわせる世 界で、そこには絵空事でない真実 味が感じられた。水と油のような 異なった筆致が作品世界に共存し ても、なんの違和感もなくむしろ 全体として一体感のある魅力を見 せるのが大竹野の作劇の妙であろ う。
この公演では主人公の不気味さ を見事に演じた戎屋海老をはじめ 役者陣の好演も目立った。女優陣 では佐野キリコのはかなげな風情 がなんともいえず魅力的だった。