アップデイトダンスNo.111 佐東利穂子ソロダンス 改訂版「悲しみのハリー」@荻窪アパラタス
タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」*1とその原作小説スタニフラス・レム「ソラリスの陽のもとに」*2を原作としたソロダンス作品である。そのあたりの枠組みの詳細は前回公演のレビュー*3に書いたが、今回作品を見ながら考えていたのは小説も映画も知らない人がこのダンス作品をどのように受容できるのだろうかという疑問なのであった。
映画はもちろんなのだが、私はまず第一に惑星自体が謎の生命体であるという未知の惑星ソラリスと人類のファーストコンタクト(第一種接近遭遇)を描き出した原作小説のファンであり、それをSF小説として高く評価しているため、このダンス作品が原作の本質をうまく伝えているとは思わないという戸惑いがあった。
ただ、今回の再演改訂版はそうした原作を離れて、佐東利穂子のソロダンス作品として見た時に佐東が演じているハリーという存在の存在形態として、それが明らかに人間でない何かであるということが感じられ、その何者かの苦悩をダンスという表現で佐東が提示する時に基本的に人間存在を演じる表現形態である演劇表現を超えたダンス表現により、それを示現させたことが分かりやすく伝わってきたという意味で、これはダンスでしか表現できない領域の表現であり、それを示した佐東は優れたダンサーであることが感じられた。
原作(映画・小説)のソラリスの設定は別にして、この舞台を見るとダンス作品としては人間がダンス表現により人間ではないものを演じるという意味では物語バレエの「白鳥の湖」や「ジゼル」に近い構造を持ち作品と感じられた。
例えば「白鳥の湖」ではオデットは人間ではあるが、同時に白鳥の化身のようなものでもあり、「ジゼル」では同じダンサーが村娘ジゼルとウィリとしてのジゼルを両方演じる。そして、これらは別々の存在を演じ分けるというよりも地続きのような存在なのであり、それでも演劇的に人を演じる以上にダンス表現で人間ではないものを演じるという両義性が作品の核となっている。
「悲しみのハリー」もやはりそうした両義性を担った存在としてハリーを描き出すが、人間として見えるハリーはこの場合、あくまで擬態であって人間ではないソラリスの海が見せる幻影のような存在なのだが、そうでありながら佐東の演技・ダンスは人間ではないハリーがあたかも人間であるかのような苦悩にさいなまれるさまを見せていく。これはダンサーであり同時に俳優でもある佐東のような存在のみが表すことができる世界なのだ。
演出. 照明:勅使川原三郎
アーティスティックコラボレーター:佐東利穂子
出演:佐東利穂子
日程 2025年5月24日(土)ー6月5日(木)