下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

MONO『その鉄塔に男たちはいるという+』@吉祥寺シアター

MONO『その鉄塔に男たちはいるという+』@吉祥寺シアター

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MONO「その鉄塔に男たちはいる+」
 劇団創設30周年の記念公演ということもあり新型コロナの流行で舞台の中止・延期が相次ぐ中あえて上演に踏み切ったと思う。そしてそのことには昨今の世間の「こんな国家的な大事の時にどうでもいい演劇なんかやるな」という風潮や現政権のやり方に対する強い憤りがあるのではないかと感じられた。
上演作品は1998年に初演、OMS戯曲賞を受賞した土田英生の代表作『その鉄塔に男たちはいるという』をオリジナルメンバーである5人(水沼 健 奥村泰彦 尾方宣久 金替康博 土田英生)で上演する(第2部)とともに、最近新たにメンバーになった4人(石丸奈菜美 高橋明日香 立川 茜 渡辺啓太)のために新作部分(第1部)を書き加え、『その鉄塔に男たちはいるという+』として上演された。
MONOの土田英生の作家性としては20年前の劇団設立10周年の時に書いたこちらの文章
*1があるのでそれを参考にしてほしいが、「絶対にありえないわけではない奇妙な状況に置かれた群像を会話劇のスタイルにより、コミカルに描きながら、そこから現代がかかえる様々な問題を浮かび上がらせていく」というものだ。ここでいう現代がかかえる問題という中には社会がかかえる諸問題が含まれるため社会問題に対する批判はないわけではないが、それを正面から描くというのは珍しい。
 そうした作風のなかでこの『その鉄塔に男たちはいるという』は珍しくストレートに反戦劇の要素が強く、その背景には1998年6月に改正された国際平和協力法(改正PKO協力法)に基づく自衛隊の海外派遣問題に絡んで、当時の日本やアメリカ、韓国、北朝鮮などの国際情勢を風刺するようなところがあった。
とはいえ、芝居自体は軍隊におもねるリーダーについていくのが嫌になり慰問先から逃げ出したコメディー色の強いパントマイム劇団の団員たちの物語で外地での戦争中という非常時の下でありながらどうにも呑気な劇団員たちの振舞には思わず笑ってしまう。それだけに舞台の幕切れには思わず息をのむところもあって、現在の劇団の状況とも重なりあって、いまどうすべきかということについていろんなことを考えさせる内容となっている。
 今回の上演は30周年記念で賞もとった代表作をひさびさに上演するという意味合いでもともと企画されていたもので、新型コロナの流行で舞台の中止・延期が相次ぐ昨今の状況とは無関係と言っていいが、反戦歌として場面転換ごとに流されるボブ・ディランの歌(ボブ・ディランの来日ライブも中止となった)といい、現在の状況との奇妙な呼応を感じさせる場面が多数あり、いろんなことを考えさせられた舞台だったのは間違いない。 

外国の戦地に慰問に来ていたグループが突然消えた。噂によればその鉄塔に男たちはいるという。


結成30周年を迎えた京都の人気劇団・MONOが
2年連続で吉祥寺シアターの舞台に登場!

1998年に初演。戦争という過酷な状況の中、
鉄塔の上で交わされる下らないやり取りを描き好評を博し、数々の団体によって上演され続けている劇団代表作をオリジナルメンバーで上演。
同じ場所で展開する時間軸の違う短編をプラスし
新たな地平で物語は完結する――

[作・演出]土田英生

[出演] 水沼 健 奥村泰彦 尾方宣久 金替康博 土田英生
石丸奈菜美 高橋明日香 立川 茜 渡辺啓

[舞台美術]奥村泰彦 [照明]吉本有輝子(真昼) [音響]堂岡俊弘 [衣裳]大野知英
[演出助手]鎌江文子 [演出部]習田歩未 米澤 愛 [舞台監督]青野守浩

[イラスト]川崎タカオ [宣伝美術]西山榮一(PROPELLER.) 大塚美枝(PROPELLER.)

[制作]垣脇純子 池田みのり 谷口静栄 [制作協力]那木萌美
[協力]Queen-B ミッシングピース 東京サムライガンズ radio mono

[主催]キューカンバー
[提携]公益財団法人 武蔵野文化事業団
[制作協力]サンライズプロモーション東京

[助成]文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
独立行政法人日本芸術文化振興会

京都芸術センター制作支援事業<<
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「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(5)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(5)

後期作品の先駆 「五匹の子豚」
 この論考の前半部で取り上げたホワットダニット的な特徴を持つ後期作品への先駆的な作品には「五匹の子豚」(1943)がある。これは実はテーマ、構成ともに「象は忘れない」と瓜二つの話であって、ほとんど完成された「過去」タイプの作品なのだ。
 現在はカーラ・ルマルションという名前だが、実はカロライン・クレイルの娘である若い女性がポワロの元を訪れるところから物語は始まる。父である画家アミアス・クレイルが殺された殺人事件を再調査してほしいというのだ。彼女がまだ5歳だった16年前の事件で、母親カロラインは夫殺しの罪で有罪となり、情状酌量で死罪は免れたがしばらくして獄中で亡くなった。娘が事件の再調査を望むに至ったのは21歳の誕生日に渡された自分の無実を断言した母親の手紙がきっかけだった。この問題がはっきりしないとこれから始めようという結婚生活が台無しになるかもとの心配もあった。
 この作品を他の作品よりも優れたものとしている要因にはその叙述の形式がある。我々読者はこの事件の弁護をした人々から、事件の中心となる三角関係について様々な意見を聞かされることになる。次にポワロは、事件当時この事件に直接かかわりを持っていた5人の人物(ポワロはこの人たちを「五匹の子豚」と名付けている)から、それぞれの立場からの個人的な解釈を聞かされることになる。ここ(第2部)ではこの5人のそれぞれの一人称描写で事件が提示され、多面的な光が当てられる。そして、最後(第3部)にいたってポワロが初めてその背後にある真相を明かすことになるのだ。
 この多角的な視点によって描かれるカロライン・クレイルはその視点ごとの偏差によって様々な性格付けが複合化された人物として現れ、ある意味それまでクリスティーが描き出してきた扁平人物の域を脱しているともいえそうなのだが、そういう意味ではこの作品はクリスティーの叙述についての技巧のひとつの頂点ともいえるのではないかと思う。

 後期のホワットダニットタイプの作品と中期の作品群を結ぶ鍵となる作品が「ゼロ時間へ」(1944)である。この作品においても冒頭で自己紹介システムを駆使して主要人物が紹介される。表題にもなっているゼロ時間とは殺人(犯罪)が実際に実行される瞬間のことだ。
それはこの作品序章でのトリーブズ弁護士の次のような言葉によって示される。

「私はね、よくできている探偵小説がすきなのだ。だがね、どれも出だしがいけない。みんな殺人ではじまっておるのだ。しかし、殺人というものは終局なのだよ。物語はずっと前からはじまっておるのだ。ときによっては何年も前からね。ある人々をある日、ある時、ある場所にみちびいてくる。その要因と出来事とで物語は始まっているのだ。(中略)あらゆるものが、ある一点に向かって集中しているのだ。……そして、その<時>がやってくるとーー爆発するのだ!そうだ、ありとあらゆるものが、このゼロ時間の一点に集中されている……」

 この作品では、犯人が序章で登場し、自らその殺人計画書に9月某日の日付を書き入れる。そして、カットバックにより描写は関係者皆が集まるソルトクリークのトレシアン夫人宅に戻される。
 その後、物語はネヴィル・ストレンジとその妻ケイ、そしてネヴィルの前妻のオードリイの三角関係を中心に進んでいき、殺人は物語の終わり近くまで起こらない。
 ディクスン・カーのフェル博士による「密室講義」ほど注目されることはないが、前述のトリーブズ博士のセリフは彼の言葉をかりたクリスティー自身のミステリ論ということさえできるのではないか。
 クリスティーが捜査、尋問、解決という決まりきった手順を踏まざる得ない従来の推理小説への不満を露吐したものと考えられ、それが次第に人間関係や殺人が起こるまでの状況への興味を中心主題とした彼女の晩年の作品群(つまり、ありていに言えばホワットダニットということだ)への移り変わりを予感させるものとなっているのだ。
 ここでは詳しい分析をすることはできないが中期の他の注目作品としては「無実はさいなむ」(1955)、「マギンティ夫人は死んだ」(1952)、「鏡は横にひび割れて」(1962)がある。
 

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連載)平成の舞台芸術回想録(2) ダムタイプ「S/N」

連載)平成の舞台芸術回想録(2) ダムタイプ「S/N」

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「平成の舞台芸術回想録」の第1弾は平田オリザ東京ノート」を取り上げたが、続く第2弾ではマルチメディアパフォーマンスグループとして、現代のメディアアートの先駆けとなったダムタイプとその代表作である「S/N」を取り上げることにした。ダムタイプは3月末にロームシアター京都での19年ぶりの新作を予定している*1ほか、イタリアで開催されるベネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館の出展作家に選ばれたことが発表されるなど、国際的な再評価の動きも今後ますます高まっていくのではないか。
 

Dumb Type - S/N
 すでに掲載した「平成の舞台芸術30本」*2において「ダムタイプをどうしても入れたいため、『演劇』ではなく『舞台芸術』というくくりにした」と記したが、同じ年(1994年)に上演された「東京ノート」「S/N」の2本こそが、その後30年間の日本のパフォーミングアート(あるいはもしかするとアート全般)の方向性を決めていく、里程橋になったと考えている。
ダムタイプ=「S/N」=古橋悌二の印象
 ダムタイプ京都市立芸術大学の学生劇団を母体に1984年京都で発足。その作品は美術やダンスなど多様な表現を横断するものであり、まずは現代美術関係者から高い評価を受けたが、その評価をパフォーミングアートから広い意味でのアート全般に広げてその評価を決定的にした作品が「S/N」だった。
ダムタイプの舞台は個人の作品ではなく、作品ごとに参加するメンバーが徹底的にディスカッションをすることで共同創作するのが特徴。そういう中で「S/N」は日本では社会的な問題としては取り上げられること少なかった同性愛者など社会的マイノリティーの問題を正面から取り上げて当時の観客に衝撃を与えた。
 この作品のメインのコンセプターであった古橋悌二がこの作品を掲げての世界ツアーの真っ最中にHIVエイズ)発症により、亡くなってしまうという大きな出来事があって、その以降ダムタイプ古橋悌二というイメージ*3が世間一般に広がった。
 私自身も「S/N」は2度生で観劇している。そのうち最初の観劇(横浜・ランドマークホール 1994年12月2-4日:第1回神奈川芸術フェスティバル)は生前の古橋悌二が出演しているバージョン。もう一度は彼が亡くなった後、追悼的な意味合いも含んで上演されたものだ。その時には古橋の登場した場面は映像で再現されていたのだが、後半テニスの審判席のような場所に古橋が座る場面で、無人の椅子にスポットライトだけが当たるという演出があり、クールな印象の強いこの集団の作品には珍しいことだが、今でもその時のことがフラッシュバックするほどの強いインパクトを受けた記憶がある。
ダムタイプと造形美
 もっともダムタイプの舞台を見てもっとも惹かれたのはそのたぐいまれな美しさであった。この「S/N」では作品を彩るモチーフとして何度も「生」と「死」をメタファー的にビジュアライズした場面が繰り返されるが、フラッシュライトのように点滅した光の中で白い壁面の向こう側にパフォーマーが落下していく場面の美しさはこの30年間見続けた幾多の舞台芸術作品のなかでも屈指の美しさであり、そうしたビジュアルイメージは30年をへた今現在映像で見ても微塵も古色蒼然を感じさせないほど新鮮なのだ。
 ダムタイプは上演された当時のことを知らない新しい若いファンを時折ある映像上映などを通じて獲得し続けている。当時最先端の表現と言われていた表現のほとんどが現在映像で見たらその魅力を失っていることが多いことを考えれば稀有なことと思う。
ダムタイプの魅力はなんといってもビジュアルや音楽などの面でのセンスのよさであり、京都市立芸術大学という東京芸術大学と並ぶ名門でアートのセンスを磨いてきた才能集団であることだと思う。以前、ダムタイプのことを「極めて京都らしい集団」と表現して周囲の人間に当惑されたことがあったが、メディアアートの先駆とされ、ハイテクパフォーマンスと呼ばれたこともあるが、池田亮司、高谷史郎らが中心となってデジタル技術が多用された後期の作品はともかく、「S/N」までの作品はハイテクノロジーのイメージは纏っているが、その内実は極めて工芸的で巧緻なアナログ技術を駆使したものである。そうした方法でまるで現代の電子技術を駆使したメディアアート(例えばライゾマティクス・リサーチ)と比べても何ら遜色のないビジュアルイメージを演出してみせたのがこの集団の素晴らしさであり、それは極めて京都的であると思うのだ。
 この「S/N」においてもそうした特徴は存分に生かされており、壁面にプロジェクションのように映し出される情報としての文字列は今なら当たり前であろうが、実は文字のフォントはすべて手仕事でデザインされレイアウトされたものを写真に撮り、静止画として映写している。先ほど印象的な場面として取り上げたフラッシュライトもそれ専門の装置は当時はなく、メンバーがカメラのフラッシュを同期させることで独自に開発したもので、こうした創意工夫が作品の中には無数に散りばめられていたという。そもそも映像の処理に当時パソコンなどのデジタル機器はほとんど使われていなかったようだ。
クラブシーンとダムタイプ
浅田のダムタイプ観ではほとんど触れられることはなかったと思うが『S/N』において重要だと思われるのはニューヨークのクラブカルチャー(特に音楽)との関係である。
 ダムタイプ音楽監督であった山中透は当時の音楽とダムタイプのパフォーマンスの関係を次のように語っている。

 日本にはその時点でほとんどクラブシーンがなかったので、大阪で活動していたシモーヌ深雪らも誘って、後の「DIAMONDS ARE FOREVER」のようなオーガナイズしたワン・ナイト・クラブなど夜の活動をはじめたのも当時のことでした。
 87年ごろにインドのゴアに行ったメンバーが持ち帰った音源でヨーロッパのクラブで最近こんなのがよくかかっているということを知り、それが後にニュービート、あるいはハウスと呼ばれるようになる音楽だったわけですが、何が起こっているのだろうと興味を持ったのです。それで88年にはニューヨークの公演中でもクラブに行っていたのですが、初期のハウスミュージック全盛の時代でした。いろんな曲をミックスして同時に流すと個別に聴いたのとはまったく別種の音が聴こえてくる。視点を変えると同じものでも見え方が変わる。そして今これをやっておかないとと思い「pH」でこれを試そうとしました。「S/N」で「アマポーラ」の曲に合わせて、爆音をかけているところも、そういうことの延長線上にあります。
 ただ、そういうことは舞台作品の場合あまり分かってもらえないことが多くて、音楽がたとえ先鋭化していってもあくまで舞台の一部としてしか受けとられていない。こちらとしては「pH」をひとつのライブだと思ってやっていた。しかし、いくらライブだと言ってもそう思って見てくれる人は少ないし、それまでの作品とは全然違う表現なんだということが分からない。結局、「pH」は2年以上ツアーをやってしまったのだけれど、それで内心もうダムタイプはいいだろうという風に思いはじめました。ツアーばかりで自分の作品を作る時間がないし、次第に集団にいる意味がないんじゃないかと考えはじめたからです。

  『S/N』でも古橋悌二ドラァグクイーンのメイクをしてリップシンクで「アマポーラ」を歌う極めて印象的な場面があるが、それはこういうコンテキストに基づいたシーンだったのである。同じクラブシーンでも東京と関西では大きな違いがあり、関西がドラァグクイーンなどゲイカルチャーとの関係で東京に先行したのにはダムタイプ周辺の人脈の存在と深い関係があった。

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演劇情報誌Jamciのダムタイプ特集
山中透インタビュー
simokitazawa.hatenablog.com
藤本隆行インタビュー
simokitazawa.hatenablog.com
高谷史郎インタビュー
simokitazawa.hatenablog.com

『S/N』
https://news.livedoor.com/article/detail/17954921/news.livedoor.com
(3)に続く
simokitazawa.hatenablog.com
www.tokyoartbeat.com

*1:残念ながらコロナ禍のため公演は中止となった。

*2:「平成の舞台芸術30本」simokitazawa.hatenablog.com

*3:このことについては浅田彰ダムタイプ観によるところが大きいと考えている。その後、メンバーとのインタビューを重ねていくなかで、この作品には集団創作ゆえの色んな側面が盛り込まれていることを強く感じた。

小田尚稔の演劇 「是でいいのだ」“Es ist gut”@三鷹SCOOL

小田尚稔の演劇 「是でいいのだ」“Es ist gut”@三鷹SCOOL

震災から9年たった2020年3月11日に小田尚稔の演劇「是でいいのだ」@三鷹SCOOLを見た。実は東日本大震災を主題として扱った演劇について考える「東日本大震災と演劇」というレクチャーを企画していたのだが、それをやろうと考えていたAICT日本センターの劇カフェが女性問題についてのテーマにやるということにきまったため、その枠組みで企画を行うことは延期となった。
 企画に際して「震災演劇ベスト10」も選びたいと考えており、知名度こそ劣るけれども「是でいいのだ」は岸田國士戯曲賞を受賞している飴屋法水「ブルーシート」や最近同賞を受賞したばかりの谷賢一「福島三部作」、高校演劇で伝説的な作品となっている畑澤聖悟「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら」などと並び有力なベスト候補だと考えている。
初演は2016年10月の新宿眼科画廊。2018年から上演会場を三鷹SCOOLに移し、毎年3月11日を日程に含むスケジュールで上演しており、今回が4回目となった。興味深いの橋本清以外のキャストが毎回全員入れ替わっていることだが、おそらく演劇経験は浅いと想像されるものの今回も特に女優3人(小川葉、澤田千尋、濱野ゆき子)は印象的でキャスティングの妙は毎回この作品の大きな楽しみである。

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小田尚稔の演劇「是でいいのだ」 “Es ist gut”
 関西という被災地から遠く離れた地にいたせいで、震災についての記憶は津波による被害や福島第一原子力発電所の事故など直接的なものというよりは震災後の特に言説におけるディスコミュニケーションに対する記憶としてより強く残っている。そのため、被災地ではない東京における地震直後の状況をビビッドに描き出したこの舞台はその当時の東京の空気感を知らない私にとっては新鮮なものであった。
中でも興味深かったのは震災当時就活をするために新宿におり、公共交通機関が止まったために帰宅難民となり、アパートのある国分寺に向けて歩いた若い女性(小川葉)のエピソードがこの作品の中核部分をなす。実は当時東京の住民が被災者でもなんでないのに被災者めいた発言をすることに関西にいて大きな違和感を抱いていたのだが、実際の被害以上に公共交通機関の停止とこの後原発事故対応で続くことになる計画停電の影響が大きいのかもしれないと思った。
 彼女は被災地である東北の出身でもあり、故郷の両親への携帯が繋がらなくなり安否が不明の不安のなかで歩き続けるのだが、そうした個人ごとに異なる体験がこの時に無数にあったのだろうということをこの舞台は5人の人物を描いていくことで思い起こさせる。
 演劇としての様式は現代口語的ではあるのだが、小田尚稔の作品では通例として哲学や思想関連の古典的な著書を引用して、現在(現代)と普遍的な思考を結びつける。「是でいいのだ」で取り上げるのはイマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』である。カントなどといえばフランス現代思想に慣れ親しんだ現代思想好きにとってもとっつきにくい印象は強い。それゆえ、現代口語的な地の表現に引用としてカントのテキストが入り込む小田の作品構造は単なる日常的な描写よりも普遍に開かれているようではあっても現実との距離感が測りかねるようなところもある。
 ただ、この作品では東日本大震災という未曽有の出来事(つまり特異な非日常)を媒介として、震災直後の東京の風景、そして、このような逆境や、自分の人生の境遇や環境を受け入れ、少しでも前に進んで乗り越えようとしている人々をやはり強制収容所という極限的な体験を礎に救いへの思考を構築したV・E・フランクル、そして彼が拠り所としたカントの思想を通じて提示していく。 

小田尚稔の演劇

「是でいいのだ」 “Es ist gut”

脚本・演出 小田尚稔
出演 小川葉 加賀田玲 澤田千尋 橋本清 濱野ゆき子

登場人物のひとりである女は、就職活動の面接の前に立ち寄った新宿のマクドナルドで被災する。電車が動かないので、徒歩で家がある国分寺まで帰宅しようとする。中央線沿いを歩く最中、彼女は当時のさまざまな風景をみて、それらの様子から回想をする。歩き疲れて夜空の星をみながら、震源地からも近い実家に住む両親のことを想う。そのときにみた星空の様子は、カント (Immanuel Kant:1724-1804)『実践理性批判』の「結び」の一節、 「ここに二つの物がある、それは〔略〕感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である」カント『実践理性批判』(岩波書店波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、1979年、317頁)とともに語られる。

「是でいいのだ」は、イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』という著作を題材にしている作品でもあります。
「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」カント『道徳形而上学の基礎づけ』(光文社古典新訳文庫中山元訳、2012年、136頁) 。
フランクルの上記著作の冒頭には、カントの「道徳法則」についての引用がなされています。V・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、ホロコーストの際アウシュヴィッツに送られ、強制収容所での体験をもとに著した『夜と霧』の作者でもり、極限的な体験を経て生き残った人物です。
本作では、2011年3月の東京での出来事と、カントやフランクルの思索との接続が狙いでもあります。登場人物を通して語られる震災直後の東京の風景。そして、このような逆境や、自分の人生の境遇や環境を受け入れて、少しでも前に進んで乗り越えることをこの物語で描いています。
「是でいいのだ」の公演も今回で四度目です。今回も素敵な出演者、スタッフの方々に恵まれました。ご観劇頂いたお客様の心のなかにいつまでも残り続けるような、いい上演になるように努めます。



SCHEDULE
2020年3月11日(WED)-3月15日(SUN) [全8回公演を予定]
3/11 (WED) 19:00-
3/12 (THU) 14:00- /19:00-
3/13 (FRI) 19:00-
3/14 (SAT) 14:00- /19:00-
3/15 (SUN) 14:00- /19:00-

※上演時間は約2時間20分程度を予定しております(途中5分程度の休憩が御座います)。
※3/14(SAT)19:00-の回は、上演の記録映像の撮影を予定しております(客席の一部に撮影用のカメラが入ることをご了承下さい)。



ACCESS
SCOOL
〒181-0013
東京都三鷹市下連雀 3-33-6
三京ユニオンビル 5F
三鷹駅南口・中央通り直進3分、右手にある「おもちゃのふぢや」ビル5階

TICKET
全席自由席・日時指定
予約2800円 当日3300円 学生2500円

※ 受付は各回開演の40分前、開場は20分前です。
※ 飲食の持ち込みはご自由です(ただし、上演中、なるべく音の出ないようにお願いします)。

新型コロナウイルス等の対応につきまして

現状公演については通常通り行う予定で御座います。以下二点の方針で進めてまいります。
① 公演関係者に感染者及びその疑いがある者がいる場合速やかに病院にて検査を受け公演自体開催の中止を検討する。
② 当日会場ではマスク及びアルコール殺菌などをご用意してご使用して頂けるように致します。
尚、今後の状況に応じて変更点など出てきましたら適宜更新してアナウンス致します。
公演最終日まで関係者一同衛生管理に気を付け、ご来場して頂きましたお客様に楽しんで頂けるよう努めますので、よろしくお願い致します。

※ 2020年1月1日より下記のURLよりご予約を承っております。
https://481engine.com/rsrv/pc_webform.php?d=3e72bd6d53&s=&PHPSESSID=afce3ee5be3d535e653db76421aab7cf

STAFF
音楽 原田裕
音響 久世直樹
記録映像撮影 南香好
宣伝美術 渡邊まな実
協力 シバイエンジン ブルーノプロデュース
企画・制作 小田尚稔

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◆小説『是でいいのだ』に寄せて
「小田尚稔の演劇」と「小説」/佐々木 敦

語り手の身体/滝口悠生

◆小説
是でいいのだ/小田尚稔

『悲劇喜劇』2020年3月号

『悲劇喜劇』2020年3月号

  • 発売日: 2020/02/07
  • メディア: 雑誌

青崎有吾「水族館の殺人」「図書館の殺人」(創元推理文庫)

青崎有吾「水族館の殺人」「図書館の殺人」(創元推理文庫)

水族館の殺人 (創元推理文庫)

水族館の殺人 (創元推理文庫)

図書館の殺人 (創元推理文庫)

図書館の殺人 (創元推理文庫)

3月のお薦め芝居(2020年)by中西理

3月のお薦め芝居(2020年)by中西理

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(復刻版、えんげきのぺーじでおなじみの「お薦め芝居」を復刻)

3月のお薦め芝居については本来2月末に掲載しなければならないところであったが、新型肺炎がらみでの公演の中止が相次いでいること、2月末に右手首を骨折、手術入院を余儀なくされたことで、掲載が遅れているところだ。もう少し待っていてほしい。
さて、多くの舞台が中止・延期となるなかで個々の判断により十分な注意のもとでの上演を決断した舞台はいくつかあり、それをぜひ紹介していきたいと思う。




 札幌公演はコロナ肺炎の影響で中止に。東京公演は現時点(3月13日)で行われる予定だから、もし予定通り行われればフィスコットーネレパートリーシアター「山の声 ―ある登山者の追想―」★★★★(SPACE早稲田)はぜひとも見てほしい舞台なのである。早逝した関西の劇作家、大竹野正典の遺作となった二人芝居。単独行で知られた孤高の登山家、加藤文太郎の評伝劇で、彼の遭難までの数日間の出来事を最後のパートナーとの二人芝居として描き出す。
 前回公演で好演した山田百次(劇団ホエイ)に加え、全編関西方言で書かれた原戯曲であることを勘案して、今回は大阪の南河内万歳一座から河野洋一郎が参加。関西弁ネイティブの強みを発揮してもらうことになった。この舞台での山田百次の迫真の演技は昨年の収穫にも選んだ。演劇ファン必見。




 注目の若手劇団ゆうめいゆうめいの座標軸『弟兄』『俺』『あか』★★★こまばアゴラ劇場)が3本立てで過去の代表作品を一挙上演する。(「あか」は公演中止に)

『弟兄』
克服できない嫌〜な体験から生まれてしまった話。
2017年のゆうめい代表作となってしまった話。
演出:池田 亮​

上演時間:約80分

『俺』

2015年にゆうめいの初公演となった二人芝居。
今回は新たにギュッとまとめて一人芝居にて上演。

演出:小松大二郎 池田 亮
ドラマターグ:森谷ふみ
上演時間:約75分

『あか』
祖父の絵を展示しながら実の親子が出演。
2020年版では別の親子も出演し、別の家族へ伝わっていく。
絵画制作:池田一末
演出:石倉来輝 石倉千津子

池田 亮 五島ケンノ介 田中祐希 小松大二郎

上演時間:約70分




 
 小田尚稔の演劇『是でいいのだ』★★★(SCOOL)にも注目したい。東日本大震災の起こった2011年3月11日。この日東京で起きた出来事を同時多発的に描き出していくモノローグ群像劇。このところ毎年この時期に再演を繰り返しているが、震災の東京を描き出した傑作だ。未見の人は一見の価値ありである。




MONO『その鉄塔に男たちはいるという+』★★★(3月13~22日、吉祥寺シアター)は結成30周年を迎えた京都の人気劇団・MONOが2年連続で吉祥寺シアターの舞台に登場。OMS戯曲賞受賞の土田英生(MONO)の代表作を加筆し再演。
 1998年に初演。戦争という過酷な状況の中、
鉄塔の上で交わされる下らないやり取りを描き好評を博し、数々の団体によって上演され続けている劇団代表作をオリジナルメンバーで上演。同じ場所で展開する時間軸の違う短編をプラスし新たな地平で物語は完結する――




 東京都現代美術館で開催中の展覧『ダムタイプ|アクション+リフレクション』でも以前紹介したダムタイプの19年ぶりの新作ダムタイプ『2020』★★★★は今月最大の注目公演である。ダムタイプはイタリアで来年開催されるベネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館の出展作家に選ばれたが、その前にこの新作でどんな新し顔を見せてくれるのだろうか。

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www.mot-art-museum.jp




 
 お薦め芝居。とりあえずブログで展開中であるが、もし掲載可能なメディアがあればぜひ連絡をお願いしたい。
 演劇・ダンスについても書いてほしいという媒体(雑誌、ネットマガジンなど)も鋭意募集中。相談はメール(simokita123@gmail.com)でお願い。ブログに書いたレビューなどを情報宣伝につかいたいという劇団があればそれも大歓迎。メール下さい。パンフの文章の依頼などもスケジュールが合えば引き受けます。新規劇団発掘にも力を入れています。招待メールなどいただければ積極的に観劇検討します。







中西


「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(4)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(4)

 第二章において便宜上「ゼロ時間へ」からを中期と分類したのであるが、クリスティーにおいてはクイーンのようにある時期を境にして作風がガラリと変化したということはなく、この辺りではいかにも本格推理小説らしい中期円熟期の作品と後期に向けての先駆的作品が混在している。
 それらの作品のうち没後発表された「カーテン」、「五匹の子豚」(1943)、「ゼロ時間へ」(1944)、「マギンティ夫人は死んだ」(1952)が後期的な特徴が色濃い作品である。
 一方、中期本格の傑作群としては「ねじれた家」(1949)、「予告殺人」(1950)、「葬儀を終えて」(1953)、「鏡は横にひび割れて」(1962)がある。
「ホロー荘の殺人」と自己紹介システム
 そのうちここでは「ホロー荘の殺人」(1946)を取り上げて、その書き出しの部分を分析してみたい。クリスティーの作品において一番特徴的なのはその導入部である。この作品でも私は「自己紹介システム」と呼んでいるが、カットバックの手法によって主要人物が登場するか、その会話の中で語られる。かなり、大人数の人間が登場することが多いクリスティー作品において、その複雑な人間関係がすっきりと頭に入るのはこのシステムに負うところが多い。
 それではこの作品の冒頭の部分について簡潔にまとめてみた。

場面    登場人物
1) ホロー荘  ルーシー・アカンテル  ミッジ・ハードカースル (ミッジの部屋で二人は会話)
 ガーダとジョンのクリストゥ夫妻についての評
ガーダ「ガーダのようないい人が知性のかけらも持っていないなんて」
ヘンリエッタ・サヴァナク 彫刻家 ガーダとは対照的な女性
ヘンリエッタならなんでもちゃんとするし、それがまたすることなすことうまくいくのよ」
デヴィッド・アカンテル 大学を出たばかりの若い青年
エドワード・アカンテル ジョン・クリストゥと並ぶと見劣りがする
 この間にルーシー・アカンテルの忘れっぽいむら気な性格が会話を通じてそれとなく示される。
2)仕事場 ヘンリエッタ・サヴァナク
 場面ははじめモデルとの会話によって構成され、彼女の作品制作の様子が描写される。その後にヘンリエッタの独白で、彼女がジョンのことが好きらしいことが明かされる。
3)診察室 ジョン・クリストゥ ここで初めて彼が医者であることが分かる。
ヘンリエッタとの現在の関係
ヴェロニカ 15年前にクリストゥが付き合っていた女優
ガーダ 手放しの忠実さにいらだたしさを覚える
4)食堂 ガーダ→ジョン→ヘンリエッタ
 ガーダのささいなことにもくよくよする性格がマトンの骨付き肉を巡るエピソードで提示される
ガーダがモデルとなった彫刻についてのジョンとヘンリエッタのいさかい
5)再び食堂 ガーダ・クリストゥ
 ガーダにとってホロー荘の滞在は悪夢である

 以上のような、場面の転換が次々とされていくわけなのだが、ここまでの描写で早くも次のことが分かってくる。妻のガーダ、彫刻家のヘンリエッタ、さらにここまでは登場していない女優のヴェロニカ。ジョン・クリストゥを巡って対立する3人の女性の存在。ヘンリエッタにはエドワードが好意を寄せ、そのエドワードにはミッジが思いを寄せていること。
 このような人物の性格描写がなされた後にこうした全ての人物がホロー荘に集められる。そして、ヴェロニカが突然そのホロー荘に闖入してくることで物語がスタートするのだ。
 ロバート・バーナードはクリスティーの登場人物について「まさにボール紙から切り抜いたような人物ばかりである」と決めつけているが、私は必ずしもそうは思わない。英国の小説家E・M・フォースターによれば小説の作中人物は扁平人物と円球人物に分けることができるという。「扁平人物とは17世紀に<気質>と呼ばれたものであり、類型とか戯画と呼ばれることもあります。そのもっとも純粋な形では、ある単一の観念なり性質を中心に構成されています」(E・M・フォースター「小説とは何か」)とし、さらに扁平人物の大きな特徴は彼らが登場する時にいつでも分けなくそれと分かるとしている。
 円球人物とは、例えばドストエフスキーラスコーリニコフやアリューシャのような人物で我々を納得させながら驚かせることができると続ける。フォースターは典型的な扁平人物の作家の例としてディケンズH・G・ウェルズを挙げているのだがクリスティーの登場人物は作品自体の構成を危うくするような円球人物は出てはこないが、少なくとも納得できる範囲での扁平人物にはなりえているのではないだろうか。これはあえて踏み込んだ言い方をするならばクリスティーは英文学の伝統の系譜に忠実ということさえ言えるかもしれない。
 ホロー荘について言えばヴェロニカは「美人だが自己中心的」、ガーダは「いつも何かをくよくよ気にかけている」、ルーシーは「忘れっぽい女性」と一言で要約できるような性格付けがあり、それがいつでもそれぞれの「行動の型」にしっかりと刻印されているので他の人物と取り違えることはほとんどないのだ。もっとも、クリスティーはその性格描写までも騙しの手段とすることもあるので、それには注意する必要があるのだが。

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新聞家オープンスタジオ「保清」@森下スタジオ

新聞家オープンスタジオ「保清」@森下スタジオ

 右腕骨折のため観劇を断念。

新聞家 「保清」 (オープンスタジオ)
新聞家

[ 期 間 ]
2020年2月23日― 3月2日

[ 内 容 ]
彼女は前に
何度か簡単
に包んだ試
供品の集ま
りをくれた

日時| 2020年2月23日(日)― 3月2日(月)
会場|森下スタジオ

詳細は下記ウェブサイト等をご確認ください。
https://sinbunka.com/



[ お申込:問合せ ]

https://sinbunka.com/

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(3)

「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」(3)@中西理

第3章 クリスティーの小説世界の変遷
 クリスティーはそれではどのような道程をたどってホワットダニットのような小説形式に到達したのであろうか。この章では主要作品のいくつかを取り上げることでそれを考えていくことにする。「スタイルズの怪事件」(1920)から「動く指」(1943)までのクリスティーの前期作品には「アクロイド殺し」「そして誰もいなくなった」をはじめとする傑作群のほとんどが含まれている。
 クリスティー「スタイルズ荘の怪事件」によってデビューしたのは1920年だった。注目すべきことは1920年にはシャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルは健在で、ホームズも活躍していたという事実だ。この時代のドイルといえば推理作家を目指す若者にとっては乗り越えがたい壁のような存在だったろう。
 そうした意味ではクリスティーも「スタイルズ荘の怪事件」においてはドイルの影響から脱しえてはいない。ホームズとワトスンの関係はそのままポワロとヘイスティングスの関係に引き写され、ホームズ譚がワトスンの一人称で語られたのと同様にヘイスティングスの一人称で描写され、そのプロット(構成)も「殺人→捜査→解決」という従来の推理小説の手順を踏んでいる。

 しかし、一方では「デビュー作はすべてを含む」という格言の通りにこの作品には後のクリスティーの多くの作品にみられる特徴も見られる。第一に事件の舞台が「コリン・ワトソンに従ってイギリスの批評家たちが『メイヘム・パーヴァ(Mayhem Parva)』と呼ぶ*1」(ロバート・バーナード)田舎町が用いられていること。
 第2に「ノックスの十戒」などによって推理小説にタブーとされていた恋愛描写が登場しているばかりか、それがメイン・モチーフになっていることだ。この小説の中ではポワロは若い2人の恋人を結びつける司祭の役をつとめるのと同時に隠れた恋愛関係すなわち共犯関係を暴きだすこともやっている。クリスティーにおいて恋愛と推理小説の融合は初めてプロットと有機的な関係を持ってなしとげられたと言えよう。
「クィン氏の事件簿」のように恋愛関係をメイン・モチーフとした作品の存在がそのことを証しているし、その他にもポワロが二人の間の障害を取り除いたことで結ばれる恋人たちも多い。そう言えば先に取り上げた「象は忘れない」もシリア・レイヴンズクロフトとデズモンドの結婚の障害となっていた過去に起きたシリアの両親の心中事件の真相を究明することが主題であった。
 次のポワロ登場作品「ゴルフ場殺人事件」にもヘイスティングスは登場。前作の特徴は踏襲される。そして、第6作目として1926年に発表され、クリスティーの名を一躍知らしめたのがアクロイド殺しである。その後、次々と発表された様々な叙述トリックの先駆として、意外な犯人像の決定版としてこの作品の名は永久に語られ続けるであろう。 しかし、この作品にはもうひとつ重要な点がある。それはクリスティーが叙述をトリックとして用いたことで、叙述と作品内容の照応関係をいくぶんなりとも意識したのではないかと思われることだ。
 現に1928年の「青列車の謎」は一人称描写を捨て、三人称の作品となっており、ヘイスティングスも登場しない。しかし「エッジウェア卿の死」「エンドハウスの怪事件」では再び、ヘイスティングスの一人称に戻っている。
 「オリエント急行殺人事件」では三人称描写、「三幕の悲劇」では三人称描写でありながらサタスウェイト氏を登場させ、彼の鋭い人間観察眼に寄り添いながら、必要に応じてカットバックの手法を用いて、同時進行で進んでいる出来事を多角的に描写するというクリスティー得意の手法がほぼ完成されている。そしてこの手法の完成とともにホームズ=ワトソン型の描写からクリスティーは解放される。 
ABC殺人事件では一人称では描き切れない部分を三人称描写を混用することによってカバーするという手法を取った後に「もの言えぬ証人」を最後としてヘイスティングスはクリスティー作品から姿を消していく*2ことになる。
 次に登場する重要作品はオリエント急行殺人事件」(1934)*3であろう。この作品は意外な犯人像の代表的作品であるが、注目すべきはクリスティーの得意テーマの1つとでもいうべき、現在起こっている事件の重要な鍵を過去のある時期に起こった出来事が持っているというプロットを最初にもちいた作品であるということである。
 「三幕の悲劇」(1935)は1930年に発表された「クィン氏の事件簿」とともにクリスティーの演劇に対する関心をうかがわせる意味で興味深い。1934年にはオリジナル戯曲「ブラック・コーヒー」が発表されており、この「三幕の悲劇」でもメインとなる予行演習トリックといい、その全体が非常に芝居がかった構成となっている点など後に「ねずみとり」の超ロングランとなって結実するクリスティーの演劇的才能の萌芽が感じられる。クリスティーの演劇性については「蒼鴉城」NO.1に「アガサ・クリスティー論序説」(石川憲洋著)という評論が発表されており、きわめて興味深いものであるので、そちらを参照していただくのがよいであろう。
 ABC殺人事件」(1935)は後に「見立て殺人」と分類されることになる連続殺人事件を扱っている。この作品は現在の目で見ると不自然さが目立ち、その殺人の必然性が取り沙汰されるのであるが、後の「不連続殺人事件」「リラ荘殺人事件」、最近では「ホッグ殺人事件」などはすべてこの「ABC」パターンのバリエーションといってよいという点で、その歴史的価値は無視できないであろう。 1930年代後半から40年代前半にかけてクリスティーは1つのピークを迎える。「そして誰もいなくなった」を中心として、この時期に「ナイルに死す」(1939)、「ポワロのクリスマス」(1938)、「杉の枢」(1940)、「愛国殺人」(1940)、「白昼の悪魔」(1941)、「五匹の子豚」(1943)といった甲乙つけがたい傑作群がひしめいている。また、クリスティーの死後発表された「スリーピングマーダー」「カーテン」の2作もほぼこの時期に執筆された。
simokitazawa.hatenablog.com

*1:Origin 1970s; earliest use found in Colin Watson (1920–1982). From mayhem + classical Latin parva, feminine singular of parvus little, after English village names with this as second element (e.g. Ash Parva, Shropshire, Ashby Parva, Leicestershire, etc.).

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:simokitazawa.hatenablog.com

青年団『東京ノート』(3回目)@吉祥寺シアター

青年団東京ノート』(3回目)@吉祥寺シアター

山内健司 松田弘子 秋山建一 小林 智 兵藤公美 能島瑞穂 大竹 直 長野 海 堀夏子 鄭亜美 中村真生 井上みなみ 佐藤 滋 前原瑞樹 中藤奨 永山由里恵 藤谷みき 木村トモアキ 多田直人 南風盛もえ
スタッフ
舞台美術:杉山 至 
舞台美術アシスタント:濱崎賢二 
舞台監督:武吉浩二(campana) 
舞台監督補佐:海津 忠
演出助手:陳 彦君 
照明:富山貴之 
照明補佐:三嶋聖子 井坂 浩
音響:泉田雄太 櫻内憧海
字幕:西本 彩
衣裳:正金 彩 
通訳:齋藤晴香 
城崎食事:森 友樹(急な坂スタジオ) 佐藤亜里紗(boxes Inc.) 
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
撮影協力:千葉県立富津公園 千葉県君津土木事務所
制作:太田久美子 西尾祥子(sistema) 有上麻衣 金澤 昭